【礼拝説教】2023年8月27日「主のみ心を求めて歩もう」
聖書―コリントの信徒への手紙一16章1~12節
(はじめに)
先週は、四年ぶりの召天者記念礼拝を行いました。先に天に召された方々のご家族、ご親族と一緒に礼拝することができましたことを感謝します。久しぶりに再会された方と親しくお話しする機会を持たれた方もあった方と思います。残暑厳しい中で、多くの方々をお迎えできたことも感謝でした。
今日はコリントの信徒への手紙一16章の前半をお読みしました。礼拝の中で、この書から、語ってまいりましたが、いよいよ最後の章となりました。この聖書個所から、一緒に聴いてまいりましょう。
(聖書から)
1節には、このようなことが書かれていました。
16:1 聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。
「聖なる者たちのための募金」とありました。募金と言いますと、私たちの教会でも、募金活動を頻繁に行っています。東日本大震災の被災者支援の募金、最近では、ウクライナの戦禍にある方々への支援、トルコ、シリアの大地震の被災者支援の募金などを行っています。ここに書かれている募金は、どこへの募金であったかというと、「聖なる者たち」とパウロが言っているのは、エルサレムの教会の人たちのことです。エルサレムの教会への支援募金が行われていました。
エルサレムの教会というのは、この手紙の宛先であるコリントの教会にとっては、母教会、最近の言い方では、親教会と言ったらいいでしょうか。そのエルサレムの教会へなぜ、募金が必要であったかというと、エルサレムの教会には、社会的に、経済的に厳しい状況にあった人たちが多くいたということで、その援助のための募金であった、ということです。二千年前のこの時代、今のように、社会保障の制度がなかった、発達していなかった、そういう時代には、教会がその役割を担うことがあったわけです。このことについて、2節以下を読みますと、パウロが詳しく指示をしていることが分かります。
16:2 わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。16:3 そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレムに行かせましょう。16:4 わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。
「週の初めの日にはいつも・・・」とありますように、週の初め、日曜日のこと、主の日の礼拝の日のことです。教会に連なる信徒の皆さんは、エルサレムの教会の支援のために、募金を集めておくように、と言っています。そして、その募金をエルサレムの教会に届けに行くことについても話しています。
パウロが、エルサレムの教会への募金について書いている。この内容から、私たちが教えられることは何でしょうか。それは、私たちが東日本大震災の被災地へ、ウクライナの戦禍にある方々へ、トルコ、シリアの大地震の被災地へ、募金をささげる。その時、私たちは、募金をささげると共に、祈りをささげます。被災地にある人たち、戦禍にある人たちに、神さまの助けがありますように、神さまの守りがありますように、と祈ります。
同じように、パウロは、コリントの教会の信徒たちに、エルサレムの教会の貧しさにある人たちのことをおぼえて、その人たちに神さまの助けがありますように、神さまの守りがありますように、と祈ることを促しているのです。
さて、続く5節以下では、パウロの伝道旅行の計画について、書かれていました。5~9節をお読みします。
16:5 わたしは、マケドニア経由でそちらへ行きます。マケドニア州を通りますから、16:6 たぶんあなたがたのところに滞在し、場合によっては、冬を越すことになるかもしれません。そうなれば、次にどこに出かけるにしろ、あなたがたから送り出してもらえるでしょう。16:7 わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています。16:8 しかし、五旬祭まではエフェソに滞在します。16:9 わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです。
パウロは、この時、8節にありますように、エフェソにいました。そのパウロが、マケドニアを経由して、コリントの教会に行きたい、と願っていました。このパウロの伝道旅行について書かれた手紙を読んでみますと、7節には、このようなことが書かれていました。「わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない。主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」。ここには、パウロの率直な気持ちが表れています。「わたしは、今、旅のついでにあなたがたに会うようなことはしたくない」と言っているのです。旅のついでに会うようなことはしたくない。この言葉から、パウロという人の人となりがよく分かります。パウロは、人に会う時、ついでに会う、というようなことはしたくなかったのです。ついでに、というのではない。その人にきちんと会いたい、出会いたい、という考えだったのです。
先週、ザアカイとイエスさまの出会いについて触れました。ザアカイという人は、エリコにいた人でしたが、イエスさまがエリコの町を訪れた時、イエスさまを一目見たいと思いましたが、イエスさまの周りには、人が大勢押し寄せていたので、いちじく桑の木に登って、木の上からイエスさまを眺めていたのです。ところが、イエスさまは、そのザアカイを下から見上げて、こう言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(ルカ19章5節)。イエスさまは、ザアカイの名前をお呼びになり、あなたの家に泊まりたい、と言われました。ザアカイ自身は、イエスさまに特別に関わりたいとは思っていなかったと思います。しかし、イエスさまの方は、その名前を知っていた。その存在をおぼえていた、というのです。そして、エリコに来たので、そのついでにあなたに会おうか、ということではありませんでした。ザアカイ、あなたと出会いたい、と言われたのです。イエスさまは、私たち一人一人に対しても、同じように出会いたい、と願っておられるのです。そして、パウロも、コリントの教会の信徒たち一人一人と出会いたい、と願っていたのです。
そういうパウロでしたが、このようなことも言っています。「主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています」。「主が許してくだされば」とあります。パウロ自身の思いは、コリントの教会に行きたい。そして、教会のみんなと会いたい、ということでした。しかし、それについて、「主が許してくだされば」とあります。自分の思い、それ以上に、パウロが大切にしたことは、主の思い、主のみ心です。
私たちは、自分の思いが実現することを願い、祈ります。ある時は、その思いが実現することがあります。またある時は、残念ながら、その思いが実現しないこともあります。この前、夏の高校野球の決勝戦がありました。試合内容はもちろん素晴らしかったのですが、どちらの選手も監督も、それぞれに素晴らしいコメントをしていました。負けたチームの監督は「負けた時に人の価値が出る」ということを選手たちに言っていたそうです。この「負けた時」ということですが、これは先ほどの話で言いますと、自分の思いが実現しなかった時、叶わなかった時ということで考えることができると思います。自分の思いが実現しなかったら、私たちはどうするでしょうか。ふてくされてしまうでしょうか。神さまに祈ってもしょうがない、と思うでしょうか。パウロの考えはこうでした。「主が許してくだされば」。これは、あきらめの言葉ではありません。私の人生の主導権は誰が持っているか、そのことを表わしているのです。私たちの人生の主導権、それは誰が持っているでしょうか。それは、自分ではないのです。神さまです。最終的には私たちは、私たちを導いてくださる神さまに、自分の人生を委ねていくのです。神さまが最も良きようにしてくださると信じて委ねていくのです。
(むすび)
16:10 テモテがそちらに着いたら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようお世話ください。わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです。16:11 だれも彼をないがしろにしてはならない。わたしのところに来るときには、安心して来られるように送り出してください。わたしは、彼が兄弟たちと一緒に来るのを、待っているのです。
16:12 兄弟アポロについては、兄弟たちと一緒にあなたがたのところに行くようにと、しきりに勧めたのですが、彼は今行く意志は全くありません。良い機会が来れば、行くことでしょう。
お読みしました聖書個所には、テモテという人とアポロという人の名前が出てきます。テモテもアポロも、パウロと同じ主の同労者でした。10節には、テモテについて、「わたしと同様、彼は主の仕事をしているのです」とあります。「主の仕事」、神さまのために働く同労者ということが言われています。テモテの年が若かったため、軽んじられるようなことがあったのかもしれません。テモテをないがしろにしてはいけない、ということが言われています。
一方、アポロについては、パウロがアポロにコリントの教会に行くようにと、しきりに勧めたけれども、アポロには今行く意志はなかった、ということです。パウロは、自分の勧めに従わないことで、アポロのことで腹を立てていたのでしょうか。それは分かりませんが、アポロも良い機会があれば、コリントの教会へ行くことがあるでしょう、と言って、アポロを非難するようなことは言っていません。むしろ、アポロの意志を尊重しているように思えます。
私たちは、お互いが主にある兄弟姉妹、主のものです。ですから、相手を支配したり、服従させたりするようなことがあってはなりません。お互いの違いを認め合い、尊重し合うことは必要です。しかし、自分の考え、こだわりに固執しないで、主のために協力し合い、励む者でありたいと思います。
このように、パウロは、エルサレムの教会のこと、コリントの教会のこと、またテモテやアポロなど、主の同労者を大切にしていた様子が、この手紙からうかがい知ることができます。私たちも、主にある教会、主にある兄弟姉妹のことをおぼえて、祈り合いましょう。助け合い、支え合っていきましょう。私たちは主の教会、キリストの体です。私たちを通して、主のみ心が表されますように、歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
今日もコリントの信徒への手紙を読みました。使徒パウロが、コリントの教会と関わり、主の教会としてどのように歩めばよいのか、そのことを、言葉を尽くして、具体的に書き送った手紙です。
その二千年後の私たちにとっても、この手紙は、私たちの教会に語りかけられているように思います。
私たちの教会が主に向かって成長していくために、どうか、主が私たちに聖書の言葉を通して、語りかけてください。僕は聴きます。主よ、お語りください、と主の言葉にいつも耳を傾けていく者、教会でありますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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