【礼拝説教】2023年9月10日「罪人を招くために」
聖書―マタイによる福音書9章9~13節
(はじめに)
お読みしました聖書個所は、マタイによる福音書の言葉です。この文書の名前は、マタイによる福音書、あるいはマタイの福音書となっていますが、それは、マタイという人が、書いた、編集した福音書ということです。そのマタイという人の名前が、この箇所に出てきます。つまり、ここには、マタイ自身が、イエスさまに出会ったことが書かれているのです。
(聖書から)
今日の聖書個所の最初の言葉には、このようなことが書かれています。
9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスさまがマタイという人に出会ったことが書かれていました。マタイという人は、この時、収税所に座っていた、とあります。マタイが収税所に座っていたというのは、そこで仕事をしていたということでしょう。今日の聖書個所の10節以下には、「徴税人」という言葉が出てきますが、マタイは税金を徴収する人だったのでしょう。
当時、ユダヤはローマの支配下にありました。マタイという人は、ユダヤ人で、自分と同じユダヤ人たちの税金を徴収する仕事をしていたのです。そして、徴収した税金は、支配国であるローマに納めることになっていました。そこでユダヤの徴税人は、同胞であるユダヤ人たちからは、ローマの手先と言われ、嫌われていたそうです。また、徴税人の中には、不正な徴収をする者もいて、罪深い、不正な人とも見られていました。
マタイは、辛い立場にあったと思います。一生懸命、働いても、誰も評価してくれない、理解してくれない。同胞のユダヤ人たちからは、罪人、悪者扱いされる。どんな気持ちで、収税所に座っていたのでしょうか。孤独な人であったかもしれません。そういうマタイでしたが、イエスさまは、そこを通りがかり、マタイをご覧になり、このように言われました。「わたしに従いなさい」。それは、イエスさまの弟子として招かれた、ということです。
イエスさまから、声をかけられたマタイについて、このように書かれていました。「彼は立ち上がってイエスに従った」。マタイは、立ち上がって、イエスさまに従った、というのです。先ほども言いましたように、マタイは、収税所に座っていました。仕事をしていました。そこを通りかかったイエスさまは、マタイを招かれたのです。
イエスさまの弟子として生きる。私たちも、イエスさまを、「イエスさまは私の主」と信じているならば、イエスさまの弟子です。では、イエスさまの弟子というのは、いつ、どこで、イエスさまの弟子として生きるのでしょうか。日曜日の礼拝の日だけでしょうか。教会に来ている時だけでしょうか。いいえ、イエスさまの弟子というのは、いつでも、どこでも、イエスさまの弟子として生きるのです。イエスさまは、マタイが収税所で仕事している時に声をかけられました。
マタイは、イエスさまの招きを聞いて、「いいえ、イエスさま、今は仕事中ですから、あなたの招きには応えられません。その話はまた後にしてください」とは、言いませんでした。「彼は立ち上がってイエスに従った」。マタイは、その場で、立ち上がって、イエスさまに従ったのです。立ち上がる。これは、ただ動作を意味しているだけではありません。決意、決心を表わしています。私を見ておられる方がいる。私を知っておられる方がいる。その喜びから主のもとに行ったのです。主に従う者となったのです。
私たちは、マタイが弟子の招きに応えていったこと。収税所に座っていたマタイが、主の招きを聞いて、立ち上がっていったこと。このことから、いつでも、どこでも、イエスさまの弟子として歩むことを教えられるのではないでしょうか。私たちも、マタイに続いて、主に従っていく者でありたいと思います。家庭でも、職場でも、どこにあっても、私はイエスさまの弟子です。イエスさまに従います、と祈っていきたいと思います。
10節には、イエスさまと人々の食事の様子が書かれています。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
「その家」とありました。どこの家のことでしょうか。イエスさまは、カファルナウムのペトロの家に長く滞在されていた(8章14節)ということを聞いたことがあります。すると、「その家」というのは、ペトロの家だったかもしれません。そこに、徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスさまや弟子たちと一緒に食事をしていたということです。
徴税人は、先ほどお話ししたように、罪人扱いされていました。他にも、罪人扱いされていた人たちがいました。神さまの前にはふさわしくない卑しい職業に就いていると言われていた人たち、また神さまの民ユダヤ人ではない人たち、そういった人たちが罪人とされていました。イエスさまはそういう人たちを招いて、一緒に食事をしていたのです。すると、その様子を見ていた人たちはこのように言います。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
ファリサイ派の人たち、彼らは、神さまの律法を守ることに熱心な人たちでした。その人たちにとっては、イエスさまが罪人とされている人たちと食事をしているのは、驚きでした。彼らは、イエスさまの弟子たちにこのように言います。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。一緒に食事をするというのは、仲間であるということ、親しい関係であることを示します。ファリサイ派の人たちは、イエスさまは、罪人の仲間なのか?親しい関係なのか?と聞いているのです。
このやり取りを、イエスさまは聞いていました。イエスさまご自身で、彼らにこのように答えています。12、13節にイエスさまの言葉が書かれていますが、まず、12節をお読みします。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。丈夫な人とは、健康な人のことです。体が丈夫、健康という人には、お医者さんは必要ではないでしょう。病院に行くこともあまりないでしょう。しかし、何にも病のないという人はいないと思います。私たちは、それぞれ何らかの病を抱えながら、生きているのではないでしょうか。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。この言葉について、ファリサイ派の人たちは、このように受け取ったかもしれません。あのイエスいう男は、自分が魂の医者で、罪人である人たちを罪から癒すためにきた、と言っている。けれども、丈夫な人である私たちは、罪とは無関係なのだ・・・。
しかし、イエスさまは続いて、このような言葉を語られます。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ここで、イエスさまは、旧約聖書・ホセア書6章6節の言葉を引用されました。ファリサイ派の人たちは、聖書に詳しい人たちでしたから、イエスさまから、この聖書の言葉を示され、この言葉を思いめぐらしたことでしょう。けれども、イエスさまは、この聖書の言葉がどういう意味なのか、行って学びなさい、と言われました。ただその場に立って、思いめぐらすように、とは言われていないのです。行って学びなさい、と言われているのです。
ファリサイ派の人たちは、自分たちは、丈夫な人、正しい人であると思い込んでいました。そういう彼らに向かって、イエスさまは言われたのです。「行って学びなさい」。あなたがたは、自分は丈夫な人、正しい人と思っているが、そこに留まっていないで、行って学びなさい。どこに行ったらよいのでしょうか。神さまのもとへ行くのです。そこで、自分の本当の姿、自分の本当の状態を知らされるのです。神さまの前に立つ時、私たちは、自分自身が、神さまの憐れみを受けなければならない者であること、自分自身が、神さまの前には、病人であり、罪人であることを知らされるのです。
(むすび)
今日の説教題は、「罪人を招くために」と付けました。罪人とは、マタイのこと、罪人と言われていた人たちだけではなく、自分を丈夫な人、正しい人と思っていたファリサイ派の人たちのことでもありました。けれども、彼らはそのことには気づいていませんでした。なぜ、気づいていなかったのかというと、神さまの前に立つことをしなかったからです。主は、彼らに「行って学びなさい」と言われました。神さまの前に立つように、と言われたのです。神さまの前に立つ時、自分も一人の罪人であることを知らされます。この私が神さまの憐れみを受けて、生かされている。そのことを知る時、「わたしが求めるのは憐れみ」という聖書の言葉が分かるようになるのです。そして、神さまの憐れみを受けていることを知る者は、他者に対しても、憐れみに生きる者となるのです。
イエスさまの招きは、マタイに与えられ、罪人とされていた人たちに与えられ、ファリサイ派の人たちにも与えられました。そして、今、私たちにも、イエスさまの招きは与えられています。「わたしに従いなさい」、「行って学びなさい」。このイエスさまの招きに応えてまいりましょう。
祈り
恵み深い主なる神さま
イエスさまは、徴税人マタイに「わたしに従いなさい」と言われ、マタイをご自分のもとに招かれました。イエスさまは、罪人とされていた人たちを家に招かれました。そして、ファリサイ派の人たちにも、「行って学びなさい」と言われ、招かれました。
この招きは、今、私たちにも与えられています。主のもとへ行き、私たちに注がれている主の憐れみ、愛を知り、それに応えて生きる者とならしめてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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