ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 【クリスマス礼拝】 私たちに与えられた大きな喜び ルカによる福音書2章8~20節
板橋 教会 クリスマス

【クリスマス礼拝】 私たちに与えられた大きな喜び ルカによる福音書2章8~20節

私たちに与えられた大きな喜び ルカによる福音書2章8~20節 2023/12/24 SUN. 11:00am~ 赤塚教会クリスマス礼拝説教

聖書―ルカによる福音書2章8~20節
(はじめに)
クリスマスおめでとうございます。
クリスマスは、イエスさまがお生まれになったことをお祝いする時です。今から二千年ほど前に、イエスさまはユダヤのベツレヘムでお生まれになりました。先週の礼拝では、イエスさまがお生まれになったことが書かれている聖書の言葉を読みました。その箇所を読んでみます(ルカ2章6、7節)。
2:6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、2:7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
住民登録をするために、ヨセフとマリアの夫婦は、ガリラヤのナザレから、ユダヤのベツレヘムへと向かいました。マリアはこの時、身重の状態でしたから、その旅は大変なことだったと思います。そして、ベツレヘムに到着しましたが、お読みした聖書の言葉が示しているように、この家族は宿泊するための場所がなかったということです。おそらく、イエスさまは、飼い葉桶に寝かされていた、とありますから、馬小屋、家畜小屋で生まれたのでしょう。

(聖書から)
今日は、お生まれになったイエスさまに会いに行った人たちについてお話しします、その人たちとは、羊飼いのことです。
2:8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
この時、羊飼いたちは、「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」とあるように、仕事をしている最中でした。当時のユダヤの羊飼いというのは、どういう人たちだったでしょうか?これについては、いろいろな説がありますが、この聖書の個所には、「野宿をしながら、夜通し群れの番をしていた」と書かれていました。この言葉からは、あまり恵まれた境遇ではなかったことが想像できます。豊かな生活をしていたとも思えません。そういう彼らの前に、ある出来事が起こります。
2:9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
「主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした」とあります。羊飼いたちに、主の天使が近づいた、というのです。そうしたところ、主の栄光、神さまの栄光が周りを照らした、というのです。私は、何か真っ暗なところに、明るい光が照らされた様子を想像します。真っ暗なところというと、羊飼いたちの心の中もそういう様子だったのではないか、と想像します。しかし、そこに光が照らされた、心に光が照らされた。それは突然のことでしたので、「彼らは非常に恐れた」というのです。
恐れた、ということですが、私たちも、何らかの恐れを抱きながら生きています。私たちが抱く恐れ、その多くは、何か自分にとって悪いことが起こるのではないかという不安、心配による恐れではないかと思います。生活のこと、健康のこと、考えれば考えるほど、そういう恐れが膨らんでくる、大きくなっていきます。この羊飼いたちも、夜通し働きながら、明日の生活のことを心配して、恐れを抱いて生きていたのではないかと思います。心配、不安で心がいっぱいになっていた、暗い思いを持ちながら生きていた。そこに、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした、というのです。
そして、主の天使は語ります。
2:10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
羊飼いたちは、非常に恐れた、とありましたが、それに対して、天使はまず、こう言っています。「恐れるな」。この恐れるな、というのは、心配しなくてもよい。不安な気持ちにならなくてもよい。そういう意味で考えてもよいでしょう。では、なぜ、そのようなことが言えるのかというと、この後にこういう言葉が続いているからです。
「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」。天使とは何者でしょうか?天使とは、神さまのお使いです。この時、天使は、神さまからあることを伝えるように遣わされたのです。それは、「民全体に与えられる大きな喜び」を伝えるようにということでした。
「民全体」とあります。すべての人ということです。すべての人に与えられる大きな喜び。どんな喜びなのでしょう。皆さんは、喜びというと、何を喜びとしているでしょうか?人それぞれに喜びは違うと思います。ある人は、美味しいものを食べること、それが何よりも喜びだ、と言われるかもしれません。ある人は、自分の子供の成長を見ることが喜びだ、と言われるかもしれません。ここで天使が伝える喜びというのは、すべての人に与えられる大きな喜びです。その喜びについて、天使は語ります。
2:11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 2:12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
天使が告げる喜び、それは、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということでした。もしかすると、これを聞いて、「なーんだ」と思われた方があるかもしれません。救い主が生まれることがどうして、喜びなのだろうと不思議に思われる方があるかもしれません。けれども、聖書が、私たちに示す大きな喜び、すべての人に与えられた大きな喜びというのは、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということなのだ、というのです。
私たちが、何を喜びとしているか、ということから、私たちは、自分が何を大切にしているのか、何に最も価値を置いているのか、ということが分かります。この聖書の言葉は、私たちにとって、何が大切なことなのか、何が最も価値あることなのかを教えているのです。聖書が教える喜び、聖書が教える大切なこと、最も価値あること、それは、救い主に出会い、この方を信じて生きるということです。
ところで、羊飼いたちは、天使の言葉を聞いて、理解できたのでしょうか?私は、この時には、まだ何のことなのか、あまり、いや、さっぱり分からなかったのではないかと思います。ただ、大きな喜びが与えられるとか、その喜びというのは、救い主で、布にくるまっている乳飲み子だとか、そのことは聞いていたのです。理解していたかどうかはともかく、聞いていたのです。
2:13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
2:14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
天使に天の大軍が加わって、神さまを賛美して言った、とありますが、天使と天の大軍の合同聖歌隊でしょうか?羊飼いたちに、このような賛美の歌声が聞こえたのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」。
「いと高きところ」というのは、天の国、神さまのおられるところということです。そこは、いつも神さまの栄光があるというのです。そして、「地」というのは、私たちのいるところ、この地上、世の中のことです。「地には平和」とあります。この地上、世の中に平和があるように、と言われているのです。私たちは、この地上、世の中に生きていますが、平和だ、と言えるでしょうか?おそらく誰もが、この地上は、世の中は平和とは言えないと思っている、平和とは言えない状態が常に続いていると思っているのではないでしょうか?
ドイツの神学者、牧師でありましたディードリッヒ・ボンヘッファーは、この聖書の言葉について、こう言っています。「神が語ったことは、ただ、平和が人間の間に存在すべきだということ、われわれは問うよりも前に神に従うべきであることのみである。神はこのように考えているのである。平和は存在すべきである。なぜなら、キリストがこの世界にいるからである」(『主のよき力に守られて ボンヘッファー1日1章』)。
「地には平和」というのは、神さまが、平和が人間の間に、つまり、この地上に、この世の中に存在すべきと言っていることなのだ、というのです。そして、それはなぜかというと、キリストがこの世界にいるから、というのです。キリストは、平和のために、私たちのところにおいでになったのです。キリストが示す平和とは何でしょうか。それは、神さまと私たち人間の間の平和、そして、人間同士の平和です。
これに続いて、「御心に適う人にあれ」とあります。「御心」とは、神さまの思い、神さまのお考えということです。神さまの思い、神さまのお考えは、この世界は、私たち人間は平和であるべきだということです。けれども、私たちは、み心に適うように生きているだろうか?この世界は、神さまのみ心に適っているだろうか?この聖書の言葉は、私たちに問いかけます。そういう私たちですが、キリストが私たちをみ心に適う者にしてくださるのです。そのために、キリストはおいでになったのです。
2:15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。2:16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
羊飼いたちは、天使から聞いただけで終わりませんでした。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」。聞いただけで終わらず、一歩、足を踏み出して、出で行ったのです。すると、彼らは救い主に出会ったのです。大きな喜びを体験したのです。聞いただけだったら何も起こらなかったでしょう。何も分からないままだったでしょう。私たちも聞くだけで留まらないで、一歩、足を踏み出して、出て行ってみようではありませんか。そうするならば、私たちも羊飼いたちのように、救い主に出会うことができるのです。大きな喜びを体験するのです。

(むすび)
救い主に出会った羊飼いたちのその後について、聖書から聞いてみましょう。
2:17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
羊飼いたちは、救い主に出会いました。そして、彼らは、救い主を人々に知らせた、というのです。彼らは、救い主に出会い、自分の人生にこの方をお迎えしたのです。すると、彼らの人生に大きな喜びがわきあがり、その喜びから、彼らは人々に救い主を知らせたのです。
2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
もう一つの羊飼いたちの後日談がここに書かれていました。救い主に出会った羊飼いたち、彼らは、神さまを礼拝し、神さまを賛美しながら帰って行ったのです。このことについて、宗教改革者として知られるマルチン・ルターは、こう言っています。
「羊かいたちは帰って前と同じ仕事にしたがった・・・かれらは自分たちのつとめを軽蔑することなく、ふたたび忠実にそのわざにしたがいました」(『クリスマス・ブック』)。
信仰とか宗教というと、世の中から逃避することと考える方がありますが、聖書はそのようなことは教えていません。むしろ、この羊飼いたちのように、自分の生活の場で、自分の置かれたところで、救い主が共におられることを信じて生きるものなのです。主が共におられる、という信仰、信頼。それは、私たちに生きる力を与え、何が真実なことかを教え、平和を求めて生きること、互いに愛し合って生きることを導きます。主が共におられる人生、これこそが、神さまが私たちに与えてくださった大きな喜びなのです。この喜びを、この救い主をお迎えする方がありますようにお祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
クリスマスを迎えました。神さまは、すべての人を愛しておられるゆえに、ご自分の大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださいました。
羊飼いたちは、本当の光、自分たちの人生を照らす光に出会いました。イエス・キリストです。彼らは、キリストに出会い、この方を人々に知らせ、この方を礼拝し、この方を賛美して生きる者となりました。
どうか、キリストに出会った私たちも、この羊飼いたちのように、キリストをお知らせし、キリストを礼拝し、賛美する者としてください。新たに、キリストに出会う方がありますように心からお願いします。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

アーカイブ

月を選択