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板橋区 教会 赤塚教会

「救いを見る」ルカによる福音書2章21~38節 2023/12/31 SUN.

「救いを見る」ルカによる福音書2章21~38節 2023/12/31 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―ルカによる福音書2章21~38節
(はじめに)
先週は、みんなでクリスマスをお祝いしました。クリスマスは、神さまが私たちを愛しているがゆえに、その大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださったことを喜び、お祝いする時です。ある方は、クリスマスを迎える度に、このようなことを言われました。「私たちはクリスマスから始まって、クリスマスで終わる」。どういうことかというと、毎週がクリスマスなのだ、ということです。毎日がクリスマスなのだ、ということです。確かに、イエスさまは、クリスマスの時だけおいでになったのではありません。毎週、いや毎日、イエスさまは私たちのところにおいでになった。イエスさまはいつも私たちと一緒におられるのです。どうか、このことを知って、イエスさまと一緒に歩まれる方がありますように心から願っています。

(聖書から)
お読みした聖書の個所には、幼子にイエスと名付けられたことが書かれていました。
2:21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
イエスさまがお生まれになって、八日目、それは、律法に従って割礼を受ける日でした。この日、イエスという名前に名付けられた、ということです。この名前は誰が名付けたのでしょうか。ここに「胎内に宿る前に天使から示された名」とあります。マタイによる福音書には、このようなことが書いてありました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1章20、21節)。
これは、主の天使の言葉です。天使は、神さまから遣わされた者ですから、天使の言葉というのは、天使を通して語られた神さまの言葉です。イエスという名前、これは、当時のユダヤでは、よくある名前でした。イエスとは、「神さまは救い」という意味です。よくある名前と言いましたが、ユダヤの人々は、神さまの救いを待ち望んでいたのです。
ヨセフとマリアは、その子供をエルサレムの神殿に連れて行きました。日本では、お子さんが生まれると、七五三という行事があります。七歳、五歳、三歳のお子さんを神社やお寺に連れて行って、子供の成長をお願いする行事です。それと似たような行事と言ってもいいでしょう。お読みした聖書の22、23節には、このようなことが書いてありました。「両親はその子を主に献げるため」、「主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてある」。
子供を主に、神さまに献げるため、とあります。それは、神さまの律法に基づいて行うことで、初めて生まれる男の子は神さまのために聖別されるため、というのです。七五三の場合は、子供の成長をお願いする、ということですが、ここに書かれていることは、子供を神さまに献げるため、神さまのために聖別されるため、ということです。それはどういうことかというと、生まれて来た子供は、神さまから与えられたものであり、神さまのものということです。
私たちは、自分たちから生まれて来た子供について、自分たちの子供、自分のものという理解があるかもしれません。しかし、聖書は、神さまが与えてくださった子供、神さまがあなたがたにお預けくださった子供、神さまのものという理解なのです。ですから、子供は、自分のもの、自分の所有物ではないのです。神さまから与えられた、預けられた大切な存在として、大切に育てるという責任があるのです。明日から新年を迎えます。皆さんの中には、お正月にご家族と過ごされる方があると思います。その時にはぜひ、自分のお子さん、あるいはお孫さんのことを、神さまが与えてくださった、神さまが預けてくださった大切な存在と思って接していただけたらと思います。それが、皆さんが家族との間で、神さまに従う、聖書の言葉に従うということです。
さて、幼子のイエスさまをエルサレムの神殿に連れて来た両親は、一人の人に出会います。シメオンという人でした。シメオンについて、25節以下にこのようなことが書かれています。
2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。2:26 そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。2:27 シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。
「この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」とあります。「正しい人」とあります。イエスさまの父ヨセフについても、「正しい人」(マタイ1章19節)とありました。ここで言われている「正しい人」というのは、神さまの律法に忠実であろうとする人、神さまに忠実に従っていこうとする人ということです。そういう意味で言うならば、皆さんもヨセフやシメオンと同じです。
そして、「イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた」とあります。イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。シメオンは慰めを求めていたのです。私には慰めなど必要ない。そういう人、いらっしゃいますか?おそらく、私たちのほとんどは、慰められたい、と思っているのではないかと思います。イエスさまが群衆、大勢の人々の様子をご覧になった、という聖書の個所があります。そこには、このようなことが書かれています(マタイ9章36節)。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
この箇所から、少し前に説教でお話ししましたが、これがイエスさまから見た群衆の姿です。そして、この群衆というのは、私たちのことでもあると思います。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」。私たちも弱り果て、打ちひしがれているのではないでしょうか。自分の人生の歩みを考えてみると、家族のこと、健康のこと、将来のこと・・・。私には、何も悩みも心配もない、という人はいないと思います。イエスさまは、私たちの心の中をすべてご存じです。そして、そういう私たちのことを、ここに書かれていますように、「深く憐れまれた」。イエスさまは、私たちのことを深く憐れんでおられるのです。
シメオンの話に戻ります。慰めを求めていたシメオンでした。そういう彼には、このようなお告げを受けていた、というのです。「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」。シメオンは慰めを求めていましたが、生きている間に、慰めを与えてくださる方に会うことができるというお告げを受けていたのです。慰めを与える方のことを、ここには「主が遣わすメシア」と書かれています。神さまが遣わされるメシア。メシアとは救い主という意味です。シメオンは、そのメシア、救い主が誰であるか、分かったのです。イエスという幼子、その幼子こそはメシア、救い主。私たちに慰めを与えてくださる方。28節以下にシメオンの言葉、シメオンの賛美が書かれています。
2:28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
2:29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。
2:30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。
2:31 これは万民のために整えてくださった救いで、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」
救い主に出会った喜びの賛美です。「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言っています。神さまの救いを見た。イエスさまを見るということ、イエスさまに出会うということ、それが救いを見るということです。シメオンは、聖霊によって、神さまの霊の導きによって、目の前の幼子、イエスさまは私の救い、救い主であることを知ったのです。私たちも以前は、自分の慰めはどこにあるのか、自分の救いはどこにあるのか、と、あることに慰めを求め、またあることを救いと考えていたかもしれません。しかし、聖書が示す本当の慰め、救いとは、イエス・キリストなのです。
2:33 父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。
このシメオンの賛美を聞いたイエスさまの両親は、この賛美の言葉を聞いて驚いた、とあります。なぜ、驚いたのでしょう。自分たちの子供です。しかし、その子供こそは、救い主であるとは、知らなかったのです。シメオンの賛美を聞いて、そのことを知らされたのです。
私は、イエスさまの両親とシメオンのことが書いてあるこの聖書の個所を読んで、これは、まるで教会のようだと思いました。なぜかというと、教会というのは、互いに神さまの恵みを分かち合うところだからです。本当の慰めが、本当の救いが神さまから与えられていることを確認し合う、気づかされる、そういうところです。そして、私たちは神さまの恵みに押し出されて、この世の旅路を歩み出すのです。

(むすび)
今日の個所の後半には、アンナという女預言者のことが書かれていました。この人について、38節を読んでみます。
2:38 そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
「近づいて来て」とあります。アンナは幼子のイエスさまに近づいたのです。私たちの救い主は、誰でも近づくことができる方です。誰でも私のもとに来なさい(マタイ11章28節)と言ってくださる方です。そして、イエスさまに近づき、イエスさまに出会うなら、その人は本当の慰め、本当の救いをいただくことができるのです。アンナはどうなったかというと、「神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した」とあります。神さまを賛美し、神さまの救いを人々に語り伝えました。
今日は、救い主に出会った人たち、シメオン、アンナのことを聞きました。私はあなたの救いを見た、私は救い主に近づいた。彼らは救い主に出会い、主を賛美し、主を宣べ伝える人になりました。私たちも救い主に出会いましょう。お祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
神さまがその大切なみ子であるイエス・キリストをお送りくださって感謝します。
私はあなたの救いを見た、とシメオンは言いました。アンナは救い主に近づきました。私たちも神さまからの最高の贈り物、イエスさまに出会い、イエスさまと一緒にこの世の旅路を歩む者でありますように。
この一年の歩みを感謝します。新しい年も、主が一緒に歩んでくださいますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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