「主が語ってくださる」マタイによる福音書10章16~25節 2024/ 1/14 SUN.
聖書―マタイによる福音書10章16~25節
(はじめに)
イエスさまは、十二人の弟子を呼び寄せ、彼らを派遣されました。先週お読みした聖書の個所には、こういう言葉が書かれていました(11節)。
10:11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
ここに「ふさわしい人」とあります。イエスさまの弟子たちが、イエスさまから遣わされて、町や村に行ったら、そこで、ふさわしい人が誰であるのか、調べて、そのふさわしい人のもとに留まりなさい、と言われました。ここで言われている「ふさわしい人」というのは、イエスさまの福音を受けるのにふさわしい人ということです。皆さんは、いかがでしょうか?自分は、福音を受けるのに、ふさわしい者なのか、ふさわしくない者なのか・・・。何とお答えになるでしょうか?
マタイによる福音書10章の初めのほうには、イエスさまの十二弟子の名前が書かれていました。この人たちはどうだったでしょうか?十二人は、イエスさまの福音を受けるのにふさわしい人たち、イエスさまの弟子としてふさわしい人たちだったでしょうか?いいえ、人間的な視点、考えからすると、そうとは言えない人たちでした。聖書の知識に優れていたわけでもなく、人格的に優れていたわけでもありませんでした。
しかし、イエスさまは、そういう人たちをご自分の弟子として選ばれました。では何をもってふさわしいとか、ふさわしくないのかというと、神さまがこの私を救ってくださった。神さまがこの私を選んでくださった。そのことを、その人自身が、神さまからの恵みとして喜んで受け取っていくかどうかということです。
マタイによる福音書10章8節には、このようなことが書かれていました。
10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
イエスさまは、弟子たちを福音宣教の働きに遣わすにあたって、こう言われました。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。ここに「ただで」とありました。神さまの救い、神さまの選びは、ただで受けられるものです。お金を払うことで受けられる、というものではありません。しかし、ここで言われている「ただで」というのは、無料であるとか、お金がかからない、というだけの意味ではありません。神さまからの贈り物、プレゼント、神さまからの恵みという意味です。私たちが何か、立派な行いをしたから、多くの善行を積んだから与えられたのではありません。何もないような私たちに神さまは贈り物として、恵みとして、救いを与えてくださった。神さまの弟子として選んでくださったのです。大事なことは、私たちがその救いを、弟子としての選びを喜んで受け取っていくということです。
(聖書から)
さて、今日は、先週の続きの個所から聴いていきます。16節以下の聖書の言葉をお読みします。まず、16節です。
10:16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
イエスさまの弟子たちが遣わされる。それは、大変光栄なことですが、イエスさまはこのように言われました。「狼の群れに羊を送り込むようなものだ」。主の弟子は、狼の群れに送り込まれる羊のような者だというのです。羊は、強い動物でしょうか?いいえ、無力な弱い動物です。狼に襲われたらひとたまりもありません。そして、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました。
蛇は賢さを象徴する動物、鳩は素直さを象徴する動物です。羊のように、弱い私たちには、賢さと素直さが必要だ、と言われたのです。賢さとは、知恵と言ってもよいと思います。神さまからの知恵をいただいて、神さまのみ心に適う生き方、喜ばれる生き方を求めていくのです。素直さ。それは、神さまに対する素直さということです。へりくだった態度と言ってもよいと思います。神さまの前に正直であるように、真実であるように。このように、主が言われた賢さ、素直さというのは、神さまを信頼して生きるということです。
17節以下には、迫害について言われています。19、20節をお読みします。
10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。10:20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
ここで「引き渡されたとき」というのは、裁判で引き渡された時のことが言われていますが、私たちにとっては、迫害に遭った時や困難な状況に陥った時ということで考えたらよいと思います。「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」。なぜ、このようなことが言えるのかというと、「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」と主は言われます。「あなたがたの中で語ってくださる、父の霊」、聖霊が私たちに語ってくださるというのです。
皆さんは、聖書の言葉を通読されているでしょうか?一日、一章ずつでもいい、少しの言葉でもいいですから、聖書の言葉を読み続けていただきたい、聴き続けていただきたいと思います。聖書の言葉を読んでいる時、毎回、感動したり、力づけられたり、ということがあればよいのですが、いつもそういうことがあるわけではありません。しかし、私たちの心の中に、聖書の言葉はじわりじわりと浸透し、私たちを成長させますから(一ペトロ2章2節)、根気よく読み続けていただきたいと願います。
聖書の言葉に親しんでいく中で、私は、「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊」、このことを教えられます。神さまは、聖書の言葉を通して、私たちに語ってくださいます。私たちの心を開き、私たちに生きる力を与え、本当に大事なことを教えてくださいます。そして、私たちが何を語るべきか、何を行うべきか、そのことが教えられるのです。
21、22節の言葉をお読みします。
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
正直なところ、この21節の言葉などは、読み飛ばしたいと思うような言葉です。これは、イエスさまを信じた人が、家族から迫害を受けることについて語られているのだそうです。イエスさまを信じることでむしろ、家族が仲良くなる。家族に平和が訪れる。福音というのは、そういうものではないか?と思いたくなるのですが、この後の34節以下にも、この箇所と似たような内容のことが語られています。そこには、イエスさまが来られたのは、家族に剣をもたらすため、敵対させるためとあります。
12月に、イエスさまのお誕生の個所をお読みしました。東の方から来た博士たち(占星術の学者たち)が、ユダヤ人の王として来られた方はどこにおられますか、と尋ねる場面で、それを聞いたユダヤの支配者であったヘロデ王、そして、エルサレムの人々も不安を抱いた(2章1~3節)と書かれていました。エルサレムの人々、つまり、ユダヤ人にとっては、待ち望んでいた救い主がおいでになるのは、嬉しいことではないでしょうか。ところが、不安を抱いた、とあります。それだけでなく、実は私たちも不安を抱くのです。なぜなら、イエスさまによって、私たちの心の中のすべてが明らかになるからです。私たちの罪が示されるからです。先ほど、聖書の通読の話をしましたが、聖書を読むと、いつも心が平安になったり、力が沸き上がったり、ということばかりではありません。ある時は、自分の罪が示され、自分の生き方が厳しく問われることがあるのです。しかし、罪が示される時というのは、恵みです。なぜなら、私たちの真実が知らされるからです。自分が一人の罪人、それも赦された罪人であることが知らされ、神さまの愛は変わることなく、自分に注がれていることを知り、悔い改めへと導かれ、新しい人生の一歩が始まるからです。
(むすび)
10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」
ここで言われている弟子とは、私たちのことです。そして、師とは、イエスさまのことです。ここで言われている僕とは、私たちのことです。そして、主人とは、イエスさまのことです。弟子は師を超える者ではありません。僕は主人を超える者ではありません。「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」とイエスさまは言われました。つまり、私たちは、イエスさまのようであれば十分だ、というのです。私たちもイエスさまのように、世においては、迫害を受けるようなことがあります。イエスさまの弟子というだけで、苦しみに遭うことがあります。パウロはこう言っています(フィリピ1章29節)。
1:29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
「キリストのために苦しむ」。キリストの苦しみを私たちも受けるのです。それは決して喜ばしいことではありませんが、パウロは「恵みとして与えられている」と言いました。なぜ、こんなことが言えるのでしょうか?私たちが、自分の愛する者と苦しみを共にして、一緒に苦しみを乗り越えると、その関係は深まっていくのではないでしょうか。私たちはイエスさまと喜びを、苦しみを共にするのです。私たちは主にある兄弟姉妹と喜びを、苦しみを共にするのです。主と共に生きる、主にある兄弟姉妹と共に生きる。それが教会です。お祈りします。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は、弟子たちを遣わされました。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものと言われました。羊は無力な弱い存在です。主ご自身が神の小羊として、この世に来られ、私たち人間の罪のただ中を歩まれました。
私たちも主の弟子です。私たちも主の僕です。神の小羊である主イエスの後を歩む者として、私たちを導いてください。そして、主の救いのみわざを宣べ伝えることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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