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板橋区 教会 

「キリストに向かって成長する」エフェソの信徒への手紙4章1~16節 2024/ 1/28 SUN.

「キリストに向かって成長する」エフェソの信徒への手紙4章1~16節 2024/ 1/28 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―エフェソの信徒への手紙4章1~16節
(はじめに)
 先週は、エフェソの信徒への手紙3章のパウロの祈りの言葉から聴きました。その祈りの中に、「内なる人」ということが出ていました。「内なる人」、それは、イエスを救い主と信じる者の内におられるキリストのことです。私たちは独りではないのです。私たちと共におられ、歩んでくださる方がおられるのです。
 クリスマスの時に読まれる聖書の中に、主の天使がヨセフに告げた言葉があります。それは、「インマヌエル」という言葉です。インマヌエルとはヘブライ語で「神は我々と共におられる」(マタイ1章23節)という意味です。インマヌエル、神さまは我々と共におられる、ということが、このパウロの祈りの中の「内なる人」という言葉で言い表されているのです。

(聖書から)
 本日お読みしたエフェソの信徒への手紙4章1節には、このような言葉が書かれていました。「主に結ばれて囚人となっているわたし」(1節)。新共同訳聖書は、このように訳していますが、パウロは、自分のことを「主の囚人」(聖書協会共同訳)と言っています。3章では、キリストは私の内におられる、と言っていましたが、この箇所では、私は、キリストの囚人、キリストに囚われている、と言っているのです。イエス・キリストを信じる人は、その人の内にキリストがおられる。それだけでなく、キリストの囚人、キリストに囚われている人だというのです。
 それでは私たちはキリストを信じる前はどうだったのでしょうか?何にも囚われることなく、自由の身で、自由を満喫して生きていたのでしょうか?いいえ、私たちは、キリストを信じる前は、別なものに囚われていたのです。その別なものとは、罪です。私たちは罪に囚われていた。罪の虜、罪の囚人になっていた。自由どころか、罪によって苦しんでいたのです。しかし今や、イエス・キリストによって罪から解放されて、キリストの囚人とされた。パウロがそのことを心から喜んで語っているのが今日の聖書の言葉です。1節からお読みします。
4:1 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、4:2 一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、4:3 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。
 私は主の囚人、キリストの囚人と言ったパウロでしたが、このようなことも言っています。神さまから招かれた者。あなたたちは神さまから招かれた者なのだから、その招きにふさわしく歩みなさい、と言っています。ここで言われている「招かれた者」というのは、「救われた者」という意味です。ですから、神さまに招かれた者としてふさわしく歩むように、神さまに救われた者としてふさわしく歩むように、と言われているのです。
 けれども、「ふさわしく」と言われると、果たして自分は、ふさわしく歩めるのだろうか?神さまの招きにふさわしく、神さまに救われた者にふさわしく歩めるのだろうか?と考え込んでしまうかもしれません。また、ここで言われている「ふさわしく歩む」とは具体的には、2、3節に書かれていることを指しています。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。ここで言われていることは、私たちに実行できるだろうか?と思えるようなことばかりです。この後の4節以下をお読みします。
4:4 体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。4:5 主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、4:6 すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
 「体は一つ、霊は一つ」とありますが、これは教会のことが言われています。教会は、キリストの体とも言われます。キリストが頭(かしら)で私たちは体の各部分です。その私たちは一つになるように、一致するように、と言われています。一つになるとか、一致するというと、全体主義のようなイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。ここで言われている一つになる、一致する、ということを理解するキーワードは、3節の「霊による一致」ということです。「霊による一致」とは、私たちが、キリストと一つになる、一致するということです。このことをよく言い表しているのが、フィリピの信徒への手紙2章5節の文語訳聖書の言葉です。そこには、このように書かれています。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。イエスさまの心を私たちの心とするように。イエスさまのお考え、思いを私たちは知って、それを私たちの考え、思いとするように、ということです。そして、私たちがキリストと一つになる時、主にあるお互いもキリストにあって一つとされるのです。
 それにしても、私たちはイエスさまと一つになる、イエスさまの心を心とする、そのこと自体も、とても難しいことのように思います。どうしたらよいでしょうか?そういう私たちの疑問、不安に対して、次の7節以下の言葉が答えています。まず、7節をお読みします。
4:7 しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。
 「わたしたち一人一人に」とあります。これは、教会に連なる私たち一人一人のことです。「キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」。神さまは、ご自分のはかりに従って、私たち一人一人に恵みを与えてくださっているというのです。その恵みによって、私たちは、神さまに招かれた者にふさわしく、神さまに救われた者にふさわしく歩むことができるようになる。キリストと一つになることができるというのです。
4:8 そこで、/「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、/人々に賜物を分け与えられた」と言われています。
4:9 「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。4:10 この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
 ここで「昇った」とか、「降りて来られた」というのは、何のことかというと、イエスさまの復活と昇天のことです。イエスさまが復活されたこと、昇天されたこと、それは、私たちに賜物を分け与えてくださるためだった、ということが言われているのです。私たちは、不完全で、欠けだらけの者ですが、ここには「すべてのものを満たすため」とあります。私たちを満たすために主はおいでくださったというのです。
 「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされた」とあります。ここに書かれているのは、当時の教会の様々な働き、職務のことですが、今、私たちがこれを読む時、当時の働き、職務に限定しないで、今の私たちの教会の働き、職務などで考えたらよいと思います。例えば、ある人を執事とされた、ある人を教会学校の教師とされた、ある人をこのような働きの奉仕者とされた・・・、というふうに読んでもよいと思います。そして、そこからおぼえていただきたいことは、私たちが自分勝手にとか、人から強制されて、というのではなく、私たちは、神さまから、それぞれの働き、職務を委ねられた、ということです。
 12節以下をお読みします。
4:12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、4:13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。
 「キリストの体を造り上げてゆき」とありましたが、ここには、教会の建設のことが言われています。建設と言っても、ここでは建物を建てることが言われているわけではありません。見えない教会の建設、すなわち、主を信じる私たちの建設のことが言われています。教会を建設する、造り上げる。それはどのようにして造り上げていくのか、というと、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」、「キリストに向かって成長してい」くとありました。また、教会に連なる一人一人についても「成熟した人間になり」とありました。私たち教会が成長、成熟するためにどうしたらよいか、というと、「神の子に対する信仰と知識において一つのものとな」ることが大切です。それは、神の子キリストへの信頼、そして、キリストの豊かさ、愛を知り、その豊かさ、愛に生きることです。先週お読みしたパウロの祈り(3章14~21節)はまさにそのことについての祈りであったことが分かります。

(むすび)
 本日の聖書の最後の言葉です。
4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
 「補い合う」、「組み合わされ」る、「結び合わされ」る・・・。これらの言葉からも、私たちが互いに愛し合うこと、支え合うことが示されていることが分かります。そして、「自ら愛によって造り上げられてゆく」とありました。教会は愛によって、神さまの愛によって造り上げられていく群れです。主の愛に生きる教会として歩んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
  主は私たちを招いてくださり、ご自分の体、教会の大切な一人一人としてくださいました。その招きにふさわしく、その救いにふさわしく生きるために、主は恵みを与えてくださいました。
 教会はキリストの愛によって造り上げられていきます。私たち自身は不完全で、愛の乏しい者ですが、主の愛を知り、主の愛に生きる群れとしてくださいますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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