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キリストの弟子、キリストの僕として生きる(マタイ10章16~25節)【週報巻頭言】2024年2月4日

弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。(マタイ10章24、25節)

ここで言われている弟子とは、私たちのことです。そして、師とは、イエスさまのことです。ここで言われている僕とは、私たちのことです。そして、主人とは、イエスさまのことです。弟子は師を超える者ではありません。僕は主人を超える者ではありません。「弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である」とイエスさまは言われました。つまり、私たちは、イエスさまのようであれば十分だ、というのです。私たちもイエスさまのように、世においては、迫害を受けるようなことがあります。イエスさまの弟子というだけで、苦しみに遭うことがあります。パウロはこう言っています。

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。(フィリピ1章29節)

「キリストのために苦しむ」。キリストの苦しみを私たちも受けるのです。それは決して喜ばしいことではありませんが、パウロは「恵みとして与えられている」と言いました。なぜ、こんなことが言えるのでしょうか?私たちが、自分の愛する者と苦しみを共にして、一緒に苦しみを乗り越えると、その関係は深まっていくのではないでしょうか。私たちはイエスさまと喜びを、苦しみを共にするのです。私たちは主にある兄弟姉妹と喜びを、苦しみを共にするのです。主と共に生きる、主にある兄弟姉妹と共に生きる。それが教会です。

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