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初夏の窓辺

「本当の休みを与えてくださる方」マタイによる福音書11章25~30節 2024/ 5/ 5 SUN.

「本当の休みを与えてくださる方」マタイによる福音書11章25~30節 2024/ 5/ 5 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書11章25~30節
(はじめに)
今日の説教題を「本当の休みを与えてくださる方」としました。「休み」と言いましたが、ちょうど、今この時期は、ゴールデン・ウイーク、大型連休の最中です。お仕事を休まれ、久しぶりに家族や友人に会い、楽しい時を過ごしておられる方があるでしょう。それは、私たちにとって、「休み」ということになるでしょうか。今日の聖書個所には、「休ませてあげよう」(28節)、「安らぎを得られる」(29節)という言葉がありますが、皆さんも、この時期、それぞれに「休み」の時、「安らぎ」の時を過ごしておられることでしょう。
教会に集うこと、礼拝に集うことが、自分にとって、「休み」の時、「安らぎ」の時である、と言われた方があります。私はそれを聞いて、なぜ、礼拝が、自分にとって、「休み」、「安らぎ」の時となるのかお尋ねしました。すると、この方は、神さまの前に立つことができるからだ、とお答えになりました。神さまは私のすべてをご存じだから。私の悩みも苦しみもすべてご存じだから。すべてをご存じの神さまの前に立つ、神さまと一緒にいる。それが一番の安らぎです、安心です、と言われました。

(聖書から)
 お読みしました聖書の言葉は、マタイによる福音書11章25~30節です。25、26節をお読みします。
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
 イエスさまは、父なる神さまを賛美され、このように言われました。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。「これらのこと」とは、何でしょうか。それは、これまで、主が語られたこと、神の国の福音のことです。それが、「知恵ある者や賢い者には隠して・・・」とあります。知恵ある者、賢い者。その人たちには、イエスさまが語られた福音は隠された。知恵ある者、賢い者とは、自分には知恵があると思って誇っている者、自分は賢いと思って誇っている者のことだと思います。そういう人にとっては、イエスさまの語られる言葉というのは、愚かなことのように思える。世の荒波を生き抜いていくためには、何の得にもならないように思える。そうすると、神さまが、その人たちに福音を隠された、というよりも、自分自身が神さまに対して、神さまの言葉に対して、心を閉ざしているために、福音が分からなくなっている、ということになります。
 「これらのことを・・・幼子のような者にお示しになりました」。「幼子のような者」。ここで言う幼子とは、乳飲み子のことです。乳飲み子は、親に全面的に頼らなければ生きていけない小さな存在です。「幼子のような者」とは、神さまに全面的に頼らなければならない小さな存在。その人は、神さまこそが本当に信頼できる方だと信じていますから、神さまの言葉を必死で聴くのです。神さまの言葉を、自分を生かす命の言葉として聴くのです。私たちは、どうでしょうか?神さまの言葉をどのように聞いているでしょうか?乳飲み子が乳を求めるように聴くならば、み言葉が私たちを生かすのです、生きる力を与えるのです。
 27節をお読みします。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 
 ここで、イエスさまは、ご自分と父なる神さまの関係について語られています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています」とあります。すべてのことは、父なる神さまから、子であるイエスさまに任せられている、というのです。それほどに、父なる神さまとイエスさまの関係は、密接であり、深いつながりであるというのです。
 「父のほかに子を知る者はなく」とあります。父なる神さま以外には、子であるイエスさまを知っている者はいない、ということです。私たちは、イエスさまとは、こういう方だ、ああいう方だ、と自分なりに、イエスさまのことを知っていると思っているかもしれません。けれども、ここで言われているように、イエスさまを本当に知っているのは、父なる神さまだけなのです。私たちがイエスさまのことを知っていると言っても、それはまだほんのわずかだけ、部分的にしか知らないのです。そういう私たちは生涯かけて、イエスさまを知っていくのです。
また、「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」とあります。父なる神さまを知るのは、その子であるイエスさまだけです。そして、イエスさまが、神さまのことを示そうと思う人たちだけだというのです。私たちが、神さまのことを知ろうとするなら、イエスさまから教えていただかなければならないのです。別な言い方をすると、イエスさまを通してでなければ、神さまを知ることはできない、ということです。
そして、28節以下の言葉です。
11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
 以前、東武東上線の下赤塚駅のそばに、看板がありました。そこに、私たちの教会の教会案内を出していたことがありました。その看板が廃止されたことで、残念ながら、今は、もうありませんが、その教会案内には、今お読みした聖書の言葉が使われていました。私は、駅の近くを通るたびに、この聖書の言葉にあるように、一人でも多くの方がイエスさまのもとに来られるように、と祈ったことを思い出します。
 ここに「疲れた者、重荷を負う者」とありますが、この言葉を読んで、私たちが思い浮かぶことは何でしょうか?人生に疲れた人、人生の重荷を負う人ということではないでしょうか。ではイエスさまは、具体的にどういう意味でこの言葉を語られたのか、というと、当時、ユダヤにおいては、宗教指導者たちから、律法を、掟を守るようにと、強要され、裁かれ、苦しんでいた人たちがいました。その人たちに向かって、主は「だれでもわたしのもとに来なさい」と語られたのです。
最近、宗教二世の問題が、よくテレビなどで取り上げられていますが、幼い時から、宗教教育ということで、厳しくしつけられる、指導される。そうすることで、立派な宗教者になっていくと考えられたのでしょう。しかし、教育される側の本音はどういうものであったのかというと、なぜ、こんな目に遭わなければならないのか・・・。心の中は、何の喜びも、平安もない。そうすると、形ばかりの信仰になってしまいます。テレビのある特集番組を観て、私は、いったい、そういう宗教とは何だろうか?宗教とは、人を生かすものではないだろうか?互いの命を大切にし、喜び合うこと、それが宗教というものではないのか?いろいろと考えさせられました。これは、私たちにとっても、決して他人事ではないと思います。キリスト教会も気を付けなければならないことだと思います。イエスさまは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。信じても、喜びもない、平安もない人たちに、この言葉を語られたのです。
 イエスさまは、続いて、このように語られました。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
 イエスさまは、ご自分のもとに来なさい、と言われ、その後に、ご自分のことをこのように言われました。「わたしは柔和で謙遜な者」。イエスさまは、柔和な方で、謙遜な方だというのです。別の訳では、「わたしは心優しく、へりくだっている」(新改訳)となっています。柔和、優しい。謙遜、へりくだっている。これが、イエスさまという方のご人格です。イエスさまは、私のように柔和で謙遜になりなさい、と言われたのでしょうか?私には、イエスさまが、私たち一人一人に向かって、「私は、あなたに対して、柔和で謙遜なのだ。私の心はあなたに開かれているから、あなたを受け入れているから、安心して私のもとに来なさい」。そういうイエスさまの招きの言葉のように聴こえます。
イエスさまは「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われました。軛というのは、二頭の牛や馬の首のところに横木を当てて、農作業をさせるための道具でした。イエスさまは、私たちに向かって、私と一緒に軛を負って歩もう、と言われたのです。それは、イエスさまが私たちの人生を一緒に歩んでくださる、ということです。イエスさまが、私たちの人生の同伴者、伴走者になってくださるというのです。伴走者というのは、視覚障害の方がランナーとして走る時、走っているところが安全かどうかを伝えながら、一緒に走ってくれる人のことです。私たちの人生の歩みもイエスさまが一緒に歩んでくださって、私たちの人生において本当に良い道はどこであるのか、イエスさまはみ言葉をもって伝えてくださるのです。だから、私たちは、イエスさまによって、安らぎを得ることができる、安心できるのです。

(むすび)
 今日の聖書の最後の言葉です。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
 先ほどは、宗教二世の問題に触れましたが、イエスさまは、律法を守ること、掟を守ることを強要されませんでした。イエスさまが言われたのは、私のもとに来なさい、ということでした。聖書が示す救い、それは律法を守らなければ、掟を守らなければ、救われない、ということではありません。イエスさまのもとへ行き、イエスさまを救い主と受け入れることが救いです。そして、救われた私たちは、救いの喜び、感謝から、イエスさまの軛を負い、イエスさまに学ぶのです。それは、イエスさまの弟子となって、イエスさまの言葉、イエスさまがお示しになる新しい掟に従っていくということです。それは、イエスさまの十字架によって表された神さまの愛に生きるということです。愛に生きると言っても、簡単なことではありません。愛に生きようと志すと、むしろ、自分には、愛がないことに気づかされます。私たちの歩みというのは、自分の愛のなさ、弱さ、自分の罪深さに気づかされる歩みです。けれども、そういう私たちと、イエスさまは一緒に歩んでくださるのです。そして、その歩みの中で、イエスさまから、愛することを教えられる、愛されていることを教えられるのです。私のすべてを支えてくださるイエスさま、私のすべてを担ってくださるイエスさま、私たちはそのことを喜びたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とも言われました。主は、すべての人を招いておられます。すべての人を、ご自分の弟子として、主の愛に生きることを願っておられます。
 主のもとへ行き、主の愛を、主が私たちになさった愛を知る時、そこで本当の休みが、安らぎが与えられます。そして、新しい私たちの歩みが始まります、主の愛に生きる者としての歩みが始まります。どうぞ、私たちを、主の招きに応えて、主の愛に生きる者として導いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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