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春のぶどう 木漏れ日 板橋区 教会

「キリストはまことのぶどうの木」 ヨハネによる福音書15章1~17節 2024/ 3/ 3 SUN.

「キリストはまことのぶどうの木」 ヨハネによる福音書15章1~17節 2024/ 3/ 3 SUN. 赤塚教会朝礼拝説教

この3月3日に、この教会で説教を通して、学び合うことができることを心から神さまに感謝します。イエスキリストは「関係の繋がり」を例えをもちいて、私たちに教えてくださいました。それは、キリストは「ぶどうの木」であるということです。確かにぶどうの木の意味がわかっているかたはいるとは思いますが、わかっていない人たちもいることに気が付かされます。しかし、一番確かなことは、「神は私たちを愛されていて、それゆえにキリストを救い主としてお与えになった」ということです。
それでは、始める前に、お祈りいたします。

(祈り)

この箇所を皆さんと学び合えるように、3ポイントとして分かち合うことにします。その前に、文脈に関して一章前の箇所、14章の背景を説明して、お読みします。

キリストは弟子たちの交わりにおられたときに、彼らに自分の死と復活をお説明になりましたが、弟子たちは、キリストがいないことをとても心配していました。ところが、キリストはその前にヨハネの福音書の14章の1―4で励ましの言葉をお与えになりました。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。私はそう言っておいたであろう。あなた方のために場所を用意しに行くのだ。行ってあなた方のために場所を用意したら、戻ってきて、あなた方を私の元に迎える。こうして、私のいるところに、あなた方もいることになる、私がどこへ行くのか、その道をあなた方は知っている。」と。

もちろんトマスはキリストの言葉に疑問を持って5節でこう言い返しました。
「主よ、どこへ行かれるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道がわかるでしょう」。キリストがお答えになった言葉はその次の箇所です。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父の元に行くことができない。」

これらのイエスキリストの約束を理解していただけましたでしょうか。それでは、次のみ言葉の文脈を学びましょう。

ヨハネの福音書の15:1−17をお読みします。

メッセージのポイントは、

ポイント1 (1−5)ぶどうの木と農夫のたとえ です。

キリストは聖書箇所で言われたように、「1まことのぶどうの木であり、父である神は農夫です」。私たちはその枝なのですとはどういうことなのでしょうか。そうです。私たちは枝として、ぶどうの木につながらなければいきていけないということです。

なぜですか。それは、ぶどうの実を結ぶためです。クリスチャンとして、目標は実を結ぶことだからです。私たちはキリストの恵みによって救われましたが、クリスチャンとして、良い行いをするためにキリストにあって作られたのです。ですから、良い行いをして歩むことが私たちの目標なのです。特に、ヤコブの手紙には、行いのない信仰は死んだ信仰だとかかれています。
ですから、救われた人者として実を結ばなければならないのです。次の箇所で、実を結ぶことは、キリストが「2私につながっている枝で実を結ばないものは皆、父が取り除き、実を結ぶものは皆、もっと豊かな実を結ぶように手入れをなさる。」と言われている通りです。

つまり、実を結ばない枝は父が切り捨て、実を結ぶ枝をもっと実を結ぶために手入れをしてくださるのです。簡単な日本語で説明いたしますと、実を結ぶことはキリストにあって、良い行いを行うことです。次の箇所で「3私たちはキリストが語ったことばによって、すでに清くなっています。」ですから、キリストに従うものとして、キリストにつながっていることはとても大事です。キリストにあってすぐに清くなっても、清くなった人たちとして実を結ぶことができます。

例えば、ぶどうの木の枝には多くの枝があり、それぞれの枝からぶどうが実っています。そのように、キリスト者たちとして、聖霊の実を結ばなければならないということも次の箇所にかかれています。ガラテヤの手紙5:22−23節にこう書いてあります、「これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。」ですから、これらの聖霊の実を結ぶことは自分の力によるのではなく、キリストであるぶどうの木につながることです。
キリストはこう言われた「4私につながっていなさい。私もあなた方につながっている。木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、私につながっていなければ、実を結ぶことができない。」

キリストは先の箇所のように繰り返されてこう言いました「5私はぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからです」
つまり、大事なポイントはキリストにつながっていることです。そうしないと、実を結ぶことができず、何もできなくなります。

ポイント2 (6−10)

キリストは6節で警告された言葉で言われたのは、切り去った枝がぶどうの木から離れてしまうと、枝が枯れてしまい、他の枯れた枝と共に集められ、火に投げ捨てられ、火に焼かれてしまいます。キリストにつながっていない人はそのせいで地獄で罰を受けてしまいます。キリストにつながっていないだけでなく、火に焼かれてしまうのです。ですから、体を殺しても魂を殺さない人を恐れるではなく、体と魂を滅ぼして地獄に投げることができる方を畏れなければならないとキリストは警告されました。もちろん、これを聞いている人たちを怖がらせるためではなく、神の約束をつたえているのです。キリストにあってつながっている人たちは神からの実を結ぶ約束を持っているのです。

さらに、もっといい約束が7節にこうかかれています。「あなた方が私につながっており、私の言葉があなた方のうちにとどまっているならば、望むものをなんでも願いなさい。そうすれば叶えられる。」

つまり、キリストにつながっていることで、神になんでも願うことができ、願いが叶えられます。自分の貪(むさぼ)るための願いでなく、罪から離れ、福音を大胆に伝え、神の栄光のために実を結ぶ願いです。
8−9節でキリストが続けて説明されます、
「あなた方が豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、私の父は栄光をお受けになる。父が私を愛されたように、私もあなた方を愛した。私の愛にとどまりなさい。」

キリスト教は他の宗教と違って、神との愛の関係を教えている宗教です。神に喜ばれるために良い行いを行うことは、キリストにあって神との愛の関係を繋がることができるのです。

10節でキリストが言われました、「私が父の戒めを守り、その愛にとどまっているように、あなた方も、私の戒めを守るなら、私の愛にとどまっていることになる」。それは奥義です。つまり、神の戒めを守り、神の愛にとどまることでキリストの愛に留まるようになるのです。

この箇所で二人の家を建てる人たちの譬え話を思い出しました。一人は砂の上に家を建てました。その家は災いに滅ぼされました、なぜなら砂を土台にしたからです。ところが、もう一人は岩の上に家を建てました。その家は災いに打たれましたが、立ち続けることができました。それは、岩を土台にして建てられたからです。

そのように、キリストは言葉を聞いて行うものはみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似てるといわれたのです。同じように、キリストにあって、神の戒めに従うと、神の友になることを約束されました。神を愛すると言って、戒めを従わないものは神の友(とも)ではありません。

ポイント3(11−17)

11−12節でキリストはこれらのことを話したのは、キリストの喜びが私たちのうちにあり、私たちの喜びが満たされるためである。キリスト者として、互いに人間を愛し合わなければならないのです。それを行う人たちは神の戒めを守っているからのです。

キリストにあって、私たちは喜ぶことができます。キリストにつながっているからです。それは結ぶ実の一つです。

13−14節から読むと真の愛は人が自分の友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。その愛はイエス様がお与えになったのですから、他の人のために自分の命を捨てなければなりません。彼らに福音を言葉だけで福音を伝えるだけでなく、行いによって人間のために愛の行いをしなければならないのです。それは本日のメッセージであり、愛はその枝が結ぶ実の一つです。

15節を読みます。 神を愛するなら、互いに人間をも愛さなければならないのです。なぜならイエスはこういわれた、「私はもはや、あなた方を僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。私はあなた方を友と呼んだ。父から聞いたことを全てあなた方に知らせたからである。」

先にお伝えしたように、神の命令に従うなら、キリストの友になります。それは神を愛することで神の戒めに従うからです。キリストは16―17節でキリストが言われたことはこれです、
「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなたが互いに実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって願うなら、父がなんでも与えてくださるようにと、私があなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」

本日のメッセージをまとめてみましょう。キリストはまことのぶどうの木であり、私たちはそれぞれの枝です。ですから、枝として実を結ぶことです。実は神様の良い行いのことです。キリストに救われた人たちだけが実を結ぶことができます。

ところが、キリストをご存じでない方たちは初めてこれを聞くことになると思います。今日がその初めならば、この説教を聞いているかたたちにキリストの救いにぜひご招待したいと思います。キリスト自身はぶどうの木であり、誰かがキリストにつながっているなら、その人は救われ、実を結ぶようになります。実を結ぶことができないのは罪のせいで、その罪のせいで神に喜ばれることができません。けれども、キリストの十字架の死と復活のおかげで、キリストにあって神との愛の関係をもち、新しく作られる人になることをキリストは約束されました。そういうことでキリストのもとに来なさい。そうすると、それらの約束を受け入れることができます。

キリストはもう一度5節でこう約束されます、「私はまことのぶどうの木、あなた方はその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである。」

祈りましょう。
(祈り)
2024年3月3日朝礼拝 赤塚バプテスト教会 スティーブン・クンケル

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