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「私たちは光の子」エフェソの信徒への手紙5章1~20節 2024/ 3/17 SUN.

「私たちは光の子」エフェソの信徒への手紙5章1~20節 2024/ 3/17 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―エフェソの信徒への手紙5章1~20節
(はじめに)
 今日の礼拝の説教題は、「私たちは光の子」としました。お読みした聖書個所の中にも、「光の子として歩みなさい」(8節)という言葉があります。
 私が子供の頃、教会学校でよく歌った賛美歌に「ひかり ひかり」という賛美歌がありました。その賛美歌は、三節までありますが、最初の一節だけ紹介します。

ひかりひかり わたくしたちは
  光のこども ひかりのように
  明るいこども いつもあかるく
  うたいましょう
 (『こどもさんびか52番』日本基督教団讃美歌委員会)

 こういう賛美歌です。これは古い版の『こどもさんびか』に入っている賛美歌で、新しい改訂版には入っていないようですが、メロディと歌詞は何となく覚えています。暗唱聖句を唱えることや、教会学校の先生や牧師先生から、聖書のお話も聞いてきたと思います。けれども、はっきりと覚えていたのは、この賛美歌だけです。「わたくしたちは光のこども」。しかし、この一つのことだけでも、この一つでも大事なことを覚えていたというのは幸いなことだったと思っています。

(聖書から)
 今日の聖書の最初の言葉をお読みします。
5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。
 最初に、「光の子供」ということをお話ししましたが、ここにも、「神に愛されている子供」とありました。エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロが、エフェソの教会の人たちに書き送った手紙と言われています。「エフェソの教会の皆さん、あなたがたは神さまに愛されている子供ですよ」。このようにパウロは語っているのです。
 神さまに愛されている子供、神さまの子供、このようにパウロは言っているのです。私は、この言葉を読んで、福音書に出てくるイエスさまの言葉を思い出しました。イエスさまは、ご自分の弟子たちに、「子供のようになりなさい」(マタイ18章3、4節参照)と言われました。そのことが書かれている箇所というのは、イエスさまの弟子たちが、イエスさまに、天の国では、誰が一番偉いのでしょうか(マタイ18章1節)と尋ねた場面です。その時、イエスさまがその質問に答えて言われたのが、「子供のようになりなさい」ということでした。この時、弟子たちは、そんなことは考えていなかったと思います。当時、聖書の舞台であるユダヤでは、子供というのは、何も知らない、愚かな存在と考えられていました。弟子たち同士が、切磋琢磨しながら、誰がイエスさまの本当の弟子なのか、そのようなことを競い合っていたかもしれません。そういう弟子たちに向かって、「子供のようになりなさい」とイエスさまは言われたのです。あなたがたは子供なのだ。あなたがたは神さまの子供なのだ。そのことをイエスさまは言われたのではないでしょうか。
 誰が一番偉いか。それが弟子たちの関心でしたが、真の親である神さまにとって、弟子たちみんながご自分の子供、ご自分の大切な、かけがえのない存在です。そこには、偉いも何もありません。大事なことは、弟子たちが、自分は神さまの子供であり、神さまは自分の真の親。そのことを知って、その神さまを信頼して生きることです。
 1節の後半には、「神に倣う者となりなさい」とあります。この言葉だけを切り離して理解すると、神さまに倣う者にならなければいけない。そういう意味に受け取ってしまうかもしれません。しかし、これは「あなたがたは神に愛されている子供ですから」という言葉に続いて、言われているのです。私は神さまに愛されている子供。愛されている喜びから、私を愛してくださっている神さまに倣っていこう。それが、「神に倣う者となりなさい」という意味です。
 続いて2節をお読みします。
5:2 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。
 ここには、キリストが「供え物」、「いけにえ」として、私たちのために神さまに献げてくださった、ということが語られています。これは、イエスさまが、私たちのために、十字架にかかってくださったことが言われているのです。神さまは、このようにして、ご自分の愛を表されました。神さまの大切なみ子であるイエスさまをこの世に、私たちのところにお送りくださって、イエスさまは、私たちを罪と死の滅びから救うために、ご自分の命を献げてくださったのです。この愛を知る私たちは、この愛によって歩むように、と言われています。それは、イエスさまが私たちを愛してくださったように、私たちも、お互いのために、神さまのために愛することに努めるということです。神さまの愛に応えて生きるということです。
 3節から7節までの言葉には、このような歩みをしてはならない、このような生き方をしてはならない、という警告が語られていますが、その中で注目したいのは、「聖なる者にふさわしく」(3節)ということ、「感謝を表しなさい」(4節)ということです。パウロは、エフェソの教会の人たちのことを「聖なる者」と呼んでいます。エフェソの教会の人たちは、とても立派な信仰生活を送っていたのでしょうか?いいえ、そうではありません。おそらく、私たちと同じようだったと思います。欠けだらけ、破れの多い私たちと同じです。しかし、そういう人たちのことを「聖なる者」と呼んでいるのです。「聖なる者」、それは、「神さまのもの」ということです。神さまは聖なる方、その子供である私たちは、「聖なる者」なのです。
 4節には、「感謝を表しなさい」とありました。警告の言葉があって、それに続いて、「それよりも、感謝を表しなさい」とあります。3~7節に書かれていること、それは、感謝とは反対の姿です。不平不満の心から出てくることが言われています。
 新生讃美歌の103番に「望みも消えゆくまでに」という賛美歌があります。この賛美歌の歌詞には、繰り返し、「数えてみよ 主の恵み」、「数えよ 主の恵み」という言葉が出てきます。この賛美歌を歌うたびに私は反省させられます。それはなぜかというと、神さまの恵みを数える、神さまの恵みを思い起こして感謝することよりも、こういう嫌なことがあった、ああいう辛いことがあった・・・。そういうことばかりを数えてしまい、そのことで頭がいっぱいになってしまって、神さまの恵みをまるでいただいていないかのように、神さまの恵みなど、まるでなかったかのように思ってしまうのです。しかし、ここには「それよりも、感謝を表しなさい」とありました。「数えてみよ 主の恵み」、不平不満ばかりを数えるのではなく、神さまの恵みを数えていこうではありませんか、神さまの恵みを思い起こしていこうではありませんか。
5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。5:9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。―― 5:10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
 ここに「光」ということが出てきます。一方、「暗闇」ということも出てきます。光と闇とは何でしょうか?光とは、「今は主に結ばれて、光となっています」とありますように、神さまに結ばれていることが光ということです。それに対して、闇とは、神さまから離れている状態のことです。私たちのために、神さまはみ子イエスさまをお送りくださいました。この方を受け入れたら、光となる、光の子となるのです。「光の子として歩みなさい」。神さまの子供として歩みなさい、ということです。そういう私たちに「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」と言われています。よくこういう質問をされることがあります。「神さまを信じる人は、自分の喜びを求めてはいけないのでしょうか?神さまの喜ばれることだけを求めなければならないのでしょうか?」私はこう答えます。「もちろん、自分の喜びを求めてもよいですが、それが果たして、神さまに喜ばれることなのかどうか、自分の喜びとしていることの一つ一つを神さまに祈り、み言葉に聞きながら吟味してください」。私たちが、神さまの子供として生きていく時、私たちは神さまの子供ですから、真の親である神さまの言葉を聞き、神さまの心、思いを知ることに努めていきましょう。すると、神さまの喜ばれることが何であるかが分かってきます。そして、神さまの喜ばれることと自分の喜びが一つになっていきます。

(むすび)
5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。5:20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
 酒に酔うことと霊に満たされることが対照的なこととして言い表されています。酒に酔うよりも、むしろ、霊に、つまり、神さまの霊、聖霊に満たされなさい、とあります。お酒よりも、もっと楽しい、もっと嬉しい、大きな喜び、それが聖霊に満たされることだと言っているのです。
 それでは、聖霊に満たされる、とは、どういうことでしょうか?聖霊に満たされる。それは、聖霊に支配されること、聖霊の導きに従うことです。別の言い方をするなら、自分を神さまに委ねて生きるということです。私たちは、主に出会う前、主を信じる前は、自分の人生を自分で切り開き、導かなければならないと考えていたのではないでしょうか。しかし、主を信じてからは、この方が私たちの人生の主ですから、自分ではなく、主が私たちの人生を導いてくださいます。詩編37編23節には、このようなみ言葉があります。
37:23 主は人の一歩一歩を定め/御旨にかなう道を備えてくださる。
 主が、神さまが私たちの人生の一歩一歩を定め、み心にかなう道を備えてくださる、とあります。これが聖霊に満たされた歩み、人生です。19、20節には、神さまを礼拝することが書かれています。聖霊に満たされて生きる人、その人の人生というのは、自分を神さまに委ねて生きる、神さまを礼拝する人生です。その歩みの中で、私たちは今までに味わったことのない大きな喜びを知らされるのです。そして、さらに神様への賛美、感謝が溢れていくのです。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 闇の中にいた私たち、罪に支配されていた私たちを、あなたはみ子イエスさまをお遣わしになり、闇から光へ、罪の支配から、神さまの子供、神さまのものとして生きるように導いてくださったことを感謝します。
 主と共に歩む人生がどんなに素晴らしいものか、喜びであるのか、そのことを一人一人がその歩みの中で味わっていくことができますようにお願いします。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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