召し使いたちは知っていた(ヨハネ2章1~11節)【週報巻頭言】2024年3月24日
イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」(ヨハネ2章7~10節)
水がぶどう酒に変わったこと、そのことを知っていたのは誰であったかというと、水がめに水を入れた召し使いたちでした。ですから、9節には、このようなことが書かれています。「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」。「このぶどう酒がどこから来たのか」とあります。「どこから」というのは、イエスさまが水をぶどう酒に変えられたことを示しています。イエスさまが、ぶどう酒を与えてくださったのです。イエスさまは、水をぶどう酒に変えるという奇跡を通して、ご自分が救い主であることを示されました。旧約聖書・イザヤ書25章9節にはこのような言葉があります。
その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。(イザヤ書25章9節)
ぶどう酒はお祝いの席には欠かせないものでした。私たちがお祝いすること、喜び祝うことは何でしょうか?私たちは、救い主が私たちのためにおいでくださったことを喜び祝うのです。それが、礼拝です。また私たちの毎日の生活も主を喜び祝う、つまり、礼拝する一日一日なのです。私たちは、イエスさまを礼拝しながら、イエスさまを喜び祝いながら、この新しい週、新しい日々を歩んでいきましょう。
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