ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. メッセージ
  4. 「小さな者」として生きるとは?(マタイ10章40~42節)【週報巻頭言】2024年3月31日
聖書の画像 板橋の教会

「小さな者」として生きるとは?(マタイ10章40~42節)【週報巻頭言】2024年3月31日

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10章42節)

冷たい水一杯を飲ませるということが言われていました。聖書の舞台のイスラエル、パレスチナの地域は、水の乏しい地域ですから、水を飲ませるということは、当然行うべきことでした。これは決して、大きな働き、慈善というものではありませんでした。しかし、イエスさまは、その小さな働き、慈善に目を向けて言われたのです。「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」。それは、どんな小さな働き、慈善であっても、報いがある、神さまからの恵みがある、ということです。

小さな働き、小さな慈善。このことから、私はイエスさまが言われた「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16章10節)という言葉を思い起こしました。主の目は、私たちの小さな、目立たないと思うようなことにも、注がれているのです。そして、主はその小さなことを喜ばれるのです。

教会ではいろいろな働きがあります。もしかすると、私たちは、自分が行っていることを小さなこと、つまらないことと考えてしまうかもしれません。けれども、主は私たちにとっては、小さく、つまらなく思えるその働きを見ておられ、知っておられます。主の目を、主のまなざしを忘れてはなりません。私たちはどんなことでも、心を込めて、最善の気持ちで行っていこうではありませんか。

イエスさまは、ご自分の弟子たちのことを「小さな者」と言われました。そして、主ご自身、世にあって、「小さな者」として歩まれました。主は「仕えられるためではなく仕えるために」(マタイ20章28節)、この世においでになりました。イエスさまを信じるとは、イエスさまに従うことです。「小さな者」として歩まれた、「仕えるために」おいでになったイエスさまの後に従うことです。

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

アーカイブ

月を選択