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悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。(マルコ3章1〜6節)

 マルコによる福音書3章5節には、イエス様の問い(「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」・4節)に沈黙する人たちに向かってのイエス様の態度、様子が記されています。
「そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」(5節)
 真ん中に立たされた片手の萎えた人のことを考えてみましょう。この人は安息日に会堂に来て、神様を礼拝していたことでしょう。この人は神様に対して、自分の萎えた手が癒やされたいと願いを持っていたのではないでしょうか。神様にそのことを祈っていたのではないでしょうか。イエス様は人の心を見られる、知られる方です。その人の心にある願いを知り、癒やされようとしたのではないでしょうか。ところが、人々はこの人は片手が萎えて不自由だけれども、命に関わるほどのことではない。それなのにあのイエスという人はこの人を癒やそうとしている。それは安息日を破ることだ。人々にとっては、この人が抱えている心の苦しみ、痛み、それよりも安息日にするかしないか。そちらに関心が向けられていました。それがかたくなな心ということです。人の苦しみ、痛みを知ろうともしない、無関心、それが、かたくなな心ということです。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら、そこで片手の萎えた人に言われます。「手を伸ばしなさい」。主が言われたこの言葉を聞いて、手を伸ばしてみたところ、その手は元通りになった、回復したというのです。
 主は人々の前で片手の萎えた人を癒やされました。片手の萎えた人とは私たちの周りにいる苦しみにある人、痛みにある人のことです。安息日、主の日は神様に愛されているお互いが神様の恵みにあるように覚えるとき、祈るときです。そして、神様を礼拝するときです。安息日に善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。主は善を行われ、命を救われました。安息日、主の日に礼拝するとは善を行われた方、命を救われた方を覚えるときです。私たちは主の日に教会に集まり、主の愛のわざを覚え、この主の日から、教会から世に派遣されて、善を行うこと、命を救うことに励んでいくのです。

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