「天の国で最も小さな者」マタイによる福音書11章1~19節 2024/ 4/ 7 SUN.
聖書―マタイによる福音書11章1~19節
(はじめに)
先週は、イエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を行いました。キリスト教会が、なぜ、毎週日曜日に、礼拝を行うのかというと、この日に、イエスさまが復活されたからです。日曜日を主の日と呼び、毎週、イエスさまを礼拝します。イエスさまが、この私のために、十字架にかかって死んでくださった。そのおかげで私は罪から救い出され、神さまの命、永遠の命に生きる者となった。このことを毎週の礼拝にみんなで集まって、一緒に喜び、感謝するのです。今日は、礼拝で、一人の方が、イエスさまは私の救い主です、と告白します。新たに、私たちと一緒にイエスさまを信じる方が加わります。私たちと一緒に、イエスさまを礼拝する方が加わります。本当に嬉しいことです。どうぞ、皆さんはこれからの主にある歩みをおぼえてお祈りください。
(聖書から)
さて、お読みした聖書はマタイによる福音書11章1節からです。この聖書個所には、ヨハネという人が出てきます。ヨハネというと、聖書の中には、何人も同じ名前の人が出てきますが、ここに出てくるヨハネというのは、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと呼ばれる人物のことです。
11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
バプテスマのヨハネは、この時、牢の中にいました。お読みしているマタイによる福音書の4章12節に「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と書かれています。なぜ、この時、ヨハネは捕らえられて牢の中にいたのかというと、マタイによる福音書14章3、4節にその理由が書かれています。ヨハネは、当時のユダヤの領主ヘロデ(ヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパス)の結婚のことを批判をしたからです。ヘロデは、自分の兄弟の妻を奪って、自分の妻にしたのですが、ヨハネはそのことを神さまの律法では許されないことだと言って批判しました。それでヘロデは、ヨハネを牢に入れてしまったのです。神さまの前に、何が正しいことであるのか、そのことを求めていたヨハネでしたが、時の権力者にとっては厄介な存在とされ牢に入れられてしまったのです。
そのヨハネが、牢の中でイエスさまのことを聞いていましたが、イエスさまのところへ自分の弟子たちを送り、このようなことを尋ねさせました。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。バプテスマのヨハネは、イエスさまのことを知らなかったわけではありません。むしろ、イエスさまのことを人々にお知らせするという大切な働きをしていました。マタイによる福音書3章11、12節には、ヨハネが、イエスさまのことをこのように語っていたことが書かれています。
3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」
今日は、この後にバプテスマ式を行いますが、お読みした聖書個所には、バプテスマのことが書かれていました。ヨハネは、人々に悔い改めを語りました。悔い改めというのは、方向転換という意味です。私たち人間は、生まれながら、自分の方を向いて生きている者です。自分の方を向いている、というのは、自分を中心に生きているということです。これが聖書でいう罪ということです。しかし、ヨハネは、罪を悔い改めなさい、と語りました。自分の方を向いて生きているあなたがたは、神さまの方を向いて生きていきなさい。自分を中心に生きるのではなく、私たちを造られ、愛されている神さまを中心に生きていきなさい、と語ったのです。ヨハネは、水でバプテスマを授けました。それは、罪の悔い改め、方向転換のためのバプテスマです。ヨハネの後に来られる方、イエスさまは、聖霊と火でバプテスマをお授けになる、とヨハネは語りました。聖霊と火のバプテスマ、それは、新生のバプテスマ、神さまと共に新しく生きるためのバプテスマです。罪に支配されていた古い自分が死んで、神さまと共に新しく生きる者とされたことをその身を持って表す。それがバプテスマです。
ヨハネは、イエスさまについて、このようにも語りました。「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。イエスさまは、私たちを新しくしてくださいます。「隅々まできれいにし」とあります。「火で焼き払われる」ともあります。古い生き方、罪に支配された生き方をイエスさまがきれいにしてくださる、焼き払ってくださるのです。けれども、ヨハネは、イエスさまが、どのようにしてそれをなさるのか知りませんでした。きっと厳しい裁きをなさるのだろう、と考えていたかもしれません。イエスさまを人々にお知らせするという大切な働きを担ったヨハネでしたが、そこまでは分からなかったのです。そこで、ヨハネは自分の弟子たちに、イエスさまのもとへ行って、尋ねさせたのです。
バプテスマのヨハネの問いにイエスさまはお答えになりました。
11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」
ここには、イエスさまがなさったことが語られています。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。このイエスさまの言葉から分かるのは、イエスさまは、厳しい裁きをなさるようなことはしておられないということです。しかし、イエスさまは、別の仕方で、イエスさまご自身が私たちの罪の身代わりとなって裁きを受けられるという仕方で、私たちの古い生き方、罪に支配された生き方をきれいにしてくださった、焼き払ってくださったのです。それが、イエスさまの十字架の贖いです。
イエスさまは、ヨハネの弟子たちに、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われました。あなたがたは、自分で見たこと、聞いたことを伝えなさい、と言われたのです。これは、私たちにも言われていることだと思います。イエスさまを信じる人は、自分がイエスさまに出会ったこと、そのことを伝えていくのです。昔、西南学院の院長先生で、ギャロットという先生がおられました。ギャロット先生が口癖のようにおっしゃっていたのが、「分かっただけのイエスさまを伝えなさい」ということでした。背伸びしなくてもいいのです。イエスさまについての深い知識やたくさんの体験がなければ伝えられない、と考えなくてもいいのです。今、自分が出会った、今、自分が分かったイエスさまを伝えていったらいいのです。ギャロット先生は、そういう意味で語られたのだと思います。
イエスさまは、ヨハネの弟子たちに最後にこう言われました。「わたしにつまずかない人は幸いである」。これは、イエスさまにつまずかない人は幸いである、という意味です。バプテスマのヨハネは、イエスさまを、自分が考えていたような救い主ではなかった、と思っていたのかもしれません。それで、イエスさまにつまずいてしまった。私たちもそういうことがあるかもしれません。イエスさまを信じたら、こういう人生になるのではないか?と期待していたけれど、そうはならなかった・・・。ある人は、順風満帆の人生ということを思い描くかもしれません。しかし、イエスさまを信じても、いろいろな試練が起こってくるではないか・・・。その時、私たちもイエスさまにつまずいているのです。けれども、私たちはそこで留まってはならない。そのつまずきを超えていくのです。自分の思い描く、自分の思い通りの神さま、信仰、人生を超えていくのです。方向転換というのは、まさにそういうことです。私が中心ではない。私が思い描くことではない。私の思い通りではない。神さまが中心です。神さまが私に語っていることを聴いて従うのです。信仰生活において、聖書から神さまの言葉を聴くこと、祈ることが欠けているなら、前に進むことはできません。なぜなら、神さまを信じていると言いながら、それは神さまを、神さまの言葉を無視しているようなことだからです。私たちは、方向転換をするのです。神さまの方に心を向けていく。先ほど、分かっただけのイエスさまと言いましたが、十年前の分かっただけのイエスさま、五年前の分かっただけのイエスさまではなく、日々新たに、イエスさまに出会っていきましょう、イエスさまの恵みをもっともっと知っていきましょう。
11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
イエスさまは、群衆にバプテスマのヨハネの話をしています。ヨハネのことをイエスさまはこう言っておられます。「預言者以上の者」。ヨハネは、旧約聖書に出てくる預言者たち、それ以上の者と言っているのです。なぜ、そう言われたのかというと、ヨハネは、「わたしの後から来る方は・・・」(3章11節以下)と言っていたように、イエスさまを人々に紹介したからです。イエスさまを人々に紹介する、伝える。それは、本当に素晴らしいことなのです。イエスさまは、ヨハネについて、彼は私のことを伝えてくれた、旧約聖書の預言者以上に大切な働きをしてくれた、と大変喜んでおられるのです。今、私たちが、イエスさまを人々に伝えるなら、イエスさまは、大変喜んでくださると思います。
11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者(バプテスマの)ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
この聖書の言葉にも、イエスさまのヨハネについての絶賛の言葉が続いています。「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者(バプテスマの)ヨハネより偉大な者は現れなかった」。ところが、すぐその後に、このような言葉が語られています。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。イエスさまが絶賛したバプテスマのヨハネ、しかし、それよりも偉大な者、それは、「天の国で最も小さな者」というのです。これは、いったい誰のことでしょうか?
(むすび)
「天の国で最も小さな者」。私たちは、それが誰であるのか、なかなか思いつかない、想像つかないかもしれません。「天の国で最も小さな者」。それは、イエスさまを救い主と信じる一人一人のことです。つまり、皆さん一人一人が、「天の国で最も小さな者」なのです。ここで一つ、注意したいことがあります。それは、「小さな者」とイエスさまがおっしゃっていることです。私たちは、小さな者なのです。大きくなろう、あるいは、大きく見せようとしてしまう私たちですが、神さまの目には、私たちは本当に小さな者なのです。私たちは、神さまによって造られ、愛され、生かされている。生きるために必要なものすべては神さまから与えられている。神さまなしには生きていけない。神さまの前には小さな私たちです。ところが、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。バプテスマのヨハネよりは偉大である、と主は言われました。これは、ヨハネよりも偉いとか、立派ということではありません。天の国に入れられること、神さまの救いにあずかること、それがどんなに大きな恵みであるのか、そのことをイエスさまは語られたのです。神さまの前には小さな私たちが、神さまの大きな恵みによって救いへと導かれた。このことをしっかりと心に刻んで歩んでいきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
神さまの目には、小さな、小さな私たちです。けれども、神さまの目には、かけがえのない、大切な者とされていること、神さまの大きな恵みによって救われたことを感謝します。
イエスさまの愛と恵みを私たちにこれからも教えてください。そして、イエスさまを喜び、伝える者として歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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