「私たちの言葉で神のわざを語る」使徒言行録2章1~13節 2024/ 5/19 SUN.
聖書―使徒言行録2章1~13節
(はじめに)
教会の大きな行事、イベントというと、クリスマス、そして、イースターがよく知られています。しかし、ペンテコステというと、あまり知られていないようです。ペンテコステというのは、ギリシア語で、第五十番目という意味です。ユダヤの大きな祭りに、過越の祭りという祭りがあります。これは、イスラエルの民が、エジプトで奴隷として苦しんでいた時、神さまがモーセという人を指導者としてお立てになり、イスラエルの民はエジプトから救い出された。そのことをお祝いする祭りです。その祭りから五十日目にお祝いされるのが、ペンテコステ、日本語では、五旬祭、または五旬節とも言われる祭りです。これは、麦の収穫をお祝いする祭りですが、もう一つの意味があります。それは、モーセがシナイ山という山で、神さまから律法を授けられた記念のお祝いでもありました。
過越の祭りとは、ユダヤの祭りと言いましたが、キリストを信じる者にとっては、特別な意味を持ちます。それは、この祭りの時に、イエス・キリストは十字架にかけられたということです。主は十字架にかけられて死なれ、墓に葬られました。しかし、三日目に復活されました。イエスさまが復活されて、五十日目、五旬祭、この時に起こった出来事が、今日お読みした聖書に書かれていたことなのです。
(聖書から)
イエスさまは、復活されて、四十日の間、弟子たちにご自身を表されました。主は、弟子たちにこのように言われました。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである」(1章4、5節)。
イエスさまは、弟子たちに、「父の約束されたもの」を待つように、と言われました。そして、「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられる」とも言われました。弟子たちは、このことを聞いても、はっきりとした意味は分からなかったようです。そこで、彼らは、イエスさまにこのように尋ねています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1章6節)。
イエスさまの弟子たちが、この時、願っていたこと、それは、イスラエルの国の建て直しでした。ローマ帝国の支配にあったこの国が建て直されるように。おそらく、当時のユダヤの人たちの多くも、そのことを願っていたことと思います。イエスさまという救い主、それは、イスラエルを建て直してくださる、イスラエルを救ってくださるための救い主と信じていたのかもしれません。これに対して、イエスさまは、このようにお答えになりました。
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1章7、8節)。イエスさまは、弟子たちの問いに対して、まともにお答えにはなりませんでした。それはなぜかというと、イエスさまは、イスラエルの国を建て直すためにおいでになったのではなかったからです。イスラエルの国を建て直すための救い主ではなかったからです。イエスさまは、私たちを罪から救うための救い主なのです。私たちの人生を建て直す、私たちを新しくしてくださるための救い主なのです。イエスさまは、聖霊についてお語りになりました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。しかし、この時、弟子たちは、このことを聞いても何のことか分からなかったと思います。
この後、イエスさまは、昇天されました。昇天、天に昇ると書きます。それは、イエスさまが、神さまのおられるところ、天に帰られた、ということです。では、イエスさまは、天から私たちのことをただ眺めているだけなのでしょうか?いいえ、この方は、私たちのことをいつも見守っておられるのです。そして、私たちのために聖霊を送られたのです。それが、父の約束です。聖霊によるバプテスマ、聖霊が降る、ということがすでに語られていたのに、この時はまだ、弟子たちは分かっていなかったのです。けれども、彼らは「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」、この言葉を聞いて、神さまの約束されたものを待ったのです。その様子が、1章12節以下に書かれています。
1:12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。
弟子たちは、エルサレムに戻って来て、泊まっていた家の上の部屋に集まり、「心を合わせて熱心に祈っていた」とあります。みんなで心を合わせて祈るということで、神さまの約束を待っていたのです。彼らは、分からないけれど、心を合わせて祈っていたのです。その約束とは何であるのか?その約束の日はいつなのか?分からないことばかり・・・。時には、愚痴をこぼすようなこともあったかもしれません。でも、一緒に祈ることで、励まし合い、神さまの約束を待ったのです。
励ましと言いますと、私も毎週、励ましを受けています。祈祷会で、一緒に祈る。心身ともに弱ったりする時には、神さまに心を向けられなくなることがあります。本当に自分は祈っているのだろうか?そう思いながら、祈っていることもあります。例えば、先が見えない、将来のことが分からない、そういう状況の中で祈ることは難しいことですが、神さまのご計画は何か、神さまのみ心は何か、尋ねながら祈り続けるのです。そういう私たちにとって、一緒に祈ってくださる人、自分のために祈ってくださる人、それは、大きな励ましになります。
何が神さまの約束なのか、分からないけれど、祈り続けた、待ち続けた。そこに起こった出来事、それが、今日の聖書個所です。
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
五旬祭の日を迎えました。この時も、弟子たちは一つになって、祈り続けていました。そこにある出来事が起こります。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2章2、3節)。ここには、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」とか、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ということが書いてあります。何か彼らにとっては、想像もつかないようなことがあったのでしょうか?これらのことについては、聖書の注解者の先生たちが、風ということから、聖霊の働きが起こったとか、舌ということから、言葉が与えられたとか、いろいろな説明をされています。4節をもう一度、読んでみますと、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。ここで、「一同」というのは、神さまの約束を待ち望んで祈っていた人たちのことでしょう。彼らは、聖霊に満たされた、というのです。聖霊、神さまの霊に満たされた。
聖霊に満たされる。皆さんは、どんな時に、自分は聖霊に満たされている、と思うでしょうか?朝の礼拝の前に、教会学校が行われています。教会学校では、みんなで聖書を開いて、聖書の言葉を読んだり、そこから気づかされたこと、教えられたことなどを分かち合ったりします。それは単なる聖書の勉強ということに留まりません。一緒に聖書を開き、聖書を読み、聴き、語り合っている時、それは、聖霊に満たされている時なのではないでしょうか?
私たちの普段の生活はどうでしょうか?なかなか聖霊に満たされているとは思えないかもしれません。聖霊ではない、別のもので心が満たされているのかもしれません。あのことで、このことで、心がいっぱいになっている・・・。けれども、教会に集って、一緒に聖書を読む、聖書に聴く。その時、聖霊、神さまの霊に満たされるという恵みにあずかるのです。聖書の言葉から、神さまの語りかけを受けて、自分の思いや自分の考えに留まっていたところから、神さまのみ心は何か、神さまのお考えは何か、そのことを知り、自分の生き方を変えようとする、変えられたいと願う。その時、私たちは、聖霊に満たされる、神さまの言葉に満たされる、という喜びの体験をするのです。
イエスさまの弟子たちが、一緒に祈りを合わせ、神さまの言葉を分かち合うと、そこから溢れ出るものがありました。それが、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ということではないでしょうか。「ほかの国々の言葉」とあります。この後の聖書の言葉を見ていきますと、ユダヤの祭りのために、ユダヤに集まり、滞在していた人たちの住んでいた国々の言葉を指しているようです。5節から読んでみます。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。
エルサレムに集まって来た人たちは、イエスさまの弟子たちのことを「ガリラヤの人」と言っています。これは、田舎の人たちのこと、高い学識、教養があるわけではない人たちということを意味しています。そういう人たちが、なぜ、私たちの住んでいる国々の言葉を話しているのか?何か不思議なことが起こっているようです。
彼らは、こうも言っています。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2章11節)。ガリラヤ出身の人たち、他の国の言葉を知っているはずもないと思われる人たちが、私たちの国の言葉で語っている。それも何を語っているのか、というと、「神の偉大な業を語っている」というのです。
(むすび)
私が、神学校を卒業して、最初に赴任した教会の主任牧師の先生は、長い間、ブラジルで宣教師として働きをされていた先生でした。外国の方が尋ねてくると、ポルトガル語や英語で流暢に会話しておられたことを思い出します。けれども、その先生がよく言っておられたことは、自分は学生時代、決して優等生ではなかった。語学などはとても苦手だった、というのです。そういう自分だけど、イエスさまの救いにあずかり、牧師の働きを志すようになった時から、ずっと祈っていたことがあった。それは、神さまの召しならば、日本でも、外国でも、どこにでも参ります、という祈りだった、というのです。神学校を卒業して、牧師としての働きを始めていた時、海外の宣教について担当している理事から、ブラジルに宣教師を派遣しようと考えているけれど、君が宣教師として行ってみないか?というお誘いがあった。語学は苦手、日本食以外は苦手、そういう自分だけど、祈ってきたことは、神さまの召しならば、どこにでも行く、ということだった。もしかすると、これが私に対する神さまの召しなのではないか?そこで、この先生は一大決心して、ブラジルに行くことになり、二十年近く、宣教師としての働きをなさいました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」。日本から来た宣教師が、自分たちの国の言葉で、神さまの偉大な業を語っている、神さまの救いを語っている。その宣教の言葉によって、どれだけ多くの人たちが主に出会ったことでしょうか。
私たちは、自分で自分の品定めをしてしまうようなことがあります。それで、「私のような者が・・・」、こういう言葉をよく口にしてしまいます。しかし、主が私たちを用いる時、自分の願っているような、思っているような仕方、方法ではないかもしれませんが、今日の聖書の言葉の中に、「“霊”が語らせるままに」とありましたように、神さまは、ご自分のみ心のままに、私たちを用いてくださるのです。今日は、ペンテコステ、聖霊降臨日の出来事の聖書個所からお話ししました。私たちは、聖霊の導き、神さまの導きに従って歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主の弟子たちは、神さまの約束を待ち望んで、心を合わせて祈っていました。そこに、聖霊が臨み、主の弟子たちは、「神の偉大な業」、神さまの救いを語る者として用いられました。主の弟子たちについて、「ガリラヤ人」と言われていました。優れた能力、優れた知識があるわけでもない、そういう人たちが、聖霊、神さまの力に導かれ、支えられ、用いられました。今、神さまは、私たちを用いようとされています。自分がどんな者であれ、どうぞ、主よ、あなたの御用のためにお用いください、と祈りつつ、歩ませてください。私たちを用いて、主の救いが表されますように、伝えられますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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