聖霊に満たされるとは(使徒言行録2章1~13節)【週報巻頭言】2024年6月9日
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2章1~4節)
五旬祭の日を迎えました。この時、弟子たちは一つになって、祈り続けていました。そこにある出来事が起こります。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(2章2、3節)。ここには、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」とか、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ということが書いてあります。何か彼らにとっては、想像もつかないようなことがあったのでしょうか?これらのことについては、聖書の注解者の先生たちが、風ということから、聖霊の働きが起こったとか、舌ということから、言葉が与えられたとか、いろいろな説明をされています。「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章4節)とあります。ここで、「一同」というのは、神さまの約束を待ち望んで祈っていた人たちのことでしょう。彼らは、聖霊に満たされた、というのです。聖霊、神さまの霊に満たされた。
聖霊に満たされる。どんな時に、自分は聖霊に満たされている、と思うでしょうか?朝の礼拝の前に、教会学校が行われています。教会学校では、みんなで聖書を開いて、聖書の言葉を読んだり、そこから気づかされたこと、教えられたことなどを分かち合ったりします。それは単なる聖書の勉強ということに留まりません。一緒に聖書を開き、聖書を読み、聴き、語り合っている時、それは、聖霊に満たされている時なのではないでしょうか?
私たちの普段の生活はどうでしょうか?なかなか聖霊に満たされているとは思えないかもしれません。聖霊ではない、別のもので心が満たされているのかもしれません。あのことで、このことで、心がいっぱいになっている・・・。けれども、教会に集って、一緒に聖書を読む、聖書に聴く。その時、聖霊、神さまの霊に満たされるという恵みにあずかるのです。聖書の言葉から、神さまの語りかけを受けて、自分の思いや自分の考えに留まっていたところから、神さまのみ心は何か、神さまのお考えは何か、そのことを知り、自分の生き方を変えようとする、変えられたいと願う。その時、私たちは、聖霊に満たされる、神さまの言葉に満たされる、という喜びの体験をするのです。
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