主の赦しを受け取って生きる(マタイ12章22~32節) 【週報巻頭言】2024年6月30日
イエスさまのことを悪霊呼ばわりした人たちに対して、イエスさまは、このようなことをお語りになりました。
だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。(マタイ12章31、32節)
ここには、赦されない罪ということが言われています。イエスさまが言われた赦されない罪、それは、何でしょうか?「“霊”に対する冒涜」、「聖霊に言い逆らう」ということが言われていました。これは、神さまの救いの働きを否定する、神さまの赦しを否定する、ということです。救いを否定する、赦しを否定する。私たちはどうでしょうか?あんな人間を神さまはお赦しにならないだろう。私のような者を神さまはお赦しにならないだろう。そう考えて、イエスさまの赦しを否定してはなりません。神さまのみ子イエス・キリストによる救い、十字架の赦し、これは絶対的なものです。私たちは、自分を赦せないでいるかもしれません、人を赦せないでいるかもしれません。しかし、イエスさまは、そういう私を赦してくださった、あの人を赦してくださった。そのことを否定してはならないのです。
イエスさまは、「神の国はあなたたちのところに来ている」(マタイ12章28節)と言われました。それは、イエスさまがおいでになったことにより、私たちは、神さまの支配の下にある、ということです。私たちは、今までは、人の支配の下に生きてきました。人の目に自分はどう見えるだろうか、どう思われるだろうか、ということが一番重要なことでした。しかし、今は違います。神さまの支配の下に生きる。それは、神さまの目から見て生きるということです。私たちが聖書の言葉を聴いて歩んでいく時、神さまの目から見る者とされていくのです。神さまの目には、私たちすべてが罪人です。しかし、そういう私たちのために、イエスさまは十字架にかかってくださいました。私たちは罪から救われた者、赦された者なのです。ある方は、こう言われました。「神さまを信じて生きるというのは、悔い改めて生きるということだ。悔い改めとは、日々、罪を告白し、神さまの赦しを受け取って生きることだ」。イエスさまと共に新しい人生を歩んでいきましょう。
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