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主が来られた!(ガラテヤ3章15〜29節)

ガラテヤ3章23節に「信仰が現れる前」とありました。この信仰が現れた、とはどういうことでしょうか?一つは、この信仰が現れた、というこの信仰という言葉は別の言葉で置き換えてみることができます。それはイエス・キリストです。イエス・キリストが現れた、ということです。私たちが一生懸命に律法を守る、あるいは私たちにとっては聖書を守る。そのことによって救われるのではないということです。私たちは私たちのところに現れた方、イエス・キリストを信じることによって救われるというのです。そして、このイエス様と一緒に聖書の言葉、神様の言葉に従っていくのです。
もう一つのことは、信仰が現れた、信仰がやって来た、とあるように、信仰というのは、私たちの心の中からわき上がってくる、私たちの中から生まれてくるものではありません。信仰は神様が与えてくださるものです。私たちは、この私のところにイエス様がおいでくださった。そのことを受け入れて、そこから信仰生活が始まったことを知っているはずです。信仰は神様から与えられたものなのです。そして、信仰とは神様と私たちのつながりということです。ライフラインです。
律法を守ることで救われると考えていた人たちに向かって、パウロは律法とは例えて言うと、24節にありますように、「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」と説明しています。私たちが幼い時、自転車に乗り始めた時はまだペダルを漕ぐ力がなく前になかなか進まない、バランスも取れないのですぐに転倒してしまう。そのために補助輪を付けたはずです。そうすると、何とか前に進んで行くことができました。それもだんだん成長していくと、必要なくなります。律法は自転車の補助輪のような役目と言えるかもしれません。でも、25節にありますように「しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません」、今や信仰が現れた、イエス様がおいでになったので、私たちは自分の力で一生懸命律法を守ろうとする生き方をしなくてもよい。イエス様と一緒に歩んでいけばよい、というのです。
見知らぬ土地に行って、そこで地図を見ながら、行きたいところを探しても、迷ってしまうことがあります。しかし、その土地の人やガイドさんでも一緒にいてくれたら、あっという間に目的地に到着します。イエス様が来られる前は、地図を見ながら、自分なりに一生懸命、目的地を目指して歩んでいたようなものです。でもイエス様が来られたら、イエス様と一緒に歩みさえすれば、目的地に到着することができるのです。

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