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「あなたはどこにいるのか」創世記3章1~13節 2024/08/25 SUN.

「あなたはどこにいるのか」創世記3章1~13節 2024/08/25 SUN. 赤塚教会礼拝説教

2024年8月25日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「あなたはどこにいるのか」
聖書―創世記3章1~13節
(はじめに)
 お読みした聖書の箇所の最初の言葉には、「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」(1節前半)とありました。蛇について、「最も賢い」と書いてありました。別の訳では、「狡猾であった」(口語訳)となっています。狡猾というと、ずる賢いということでしょうか。しかし、原語に忠実に訳すならば、ここは「賢い」という言葉です。
 ここから考えさせられることは、「賢い」ということ、その「賢さ」というのが、何に使われ、何に用いられるか、何に向かっているかということで違ってくるということです。その「賢さ」が、例えば、世の中の良いことに用いられたなら素晴らしいことです。しかし、その「賢さ」が良いこととは言えないことに用いられるならば、その「賢さ」は、ずる賢さ、狡猾ということになってしまうのです。それはとても残念なことです。

(聖書から)
 さて、その賢い蛇が女に言ったこと、そこから、今日の聖書は始まります。「蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」(1節後半)。蛇は女にこのようなことを尋ねています。創世記2章16、17節には、神さまが人に言われた言葉が書かれています。その言葉を読んでみます。
2:16 主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
 ここで人というのは、聖書が示す最初の人アダムのことです。そして、女というのは、アダムの妻エバのことです。蛇は女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と尋ねています。けれども、お読みしたように、神さまは、アダムに「園のすべての木から取って食べなさい」と言われました。つまり、この質問自体が間違っています。神さまが言われていないことを言われたかのようにして、蛇は話しています。この聖書個所は、「蛇の誘惑」という小見出しが付いていますが、その誘惑とは、人を罪へと誘惑する、ということです。罪、それは、私たち人間が、私たちを造られ、愛しておられる神さまから離れてしまう、神さまとの関係が断絶してしまうということです。
 さて、女は蛇の問いに対して、どう答えたのでしょうか。2、3節をお読みします。
3:2 女は蛇に答えた。
「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 女の答えを見ていきましょう。女はまず、「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです」と言っています。蛇は「食べてはいけない」ということを強調しましたが、女は神さまが言われたとおりに、「食べてもよい」と言われた、と答えています。蛇は、惑わすために、意図的に神さまの言われたことではないことを言いましたが、それに対して、女は正しく答えています。ところが、このようにも言っています。「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」。
 今度は、女の方が、神さまが言われたのではない言葉を言われたかのように言っています。神さまは「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と言われたのに、女は、「園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない」と答えています。神さまは「善悪の知識の木」と言われたのに、「園の中央に生えている木」と言い換えているのです。
 すると、蛇は、女にこう言いました。
3:4 蛇は女に言った。
「決して死ぬことはない。3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
 ここで、また蛇は神さまが言われたこととは違うことを言っています。「決して死ぬことはない」。そして、神さまが食べてはいけないと言われた木の果実を食べたくなるように唆しています。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。「神のように善悪を知るもの」。これはどういうことでしょうか?善悪を知る、ということだけで考えると、決して悪いことではない、間違っていることではない、と思うのではないでしょうか。しかし、ここには「神のように」とありました。神さまのように善悪を知る。それは、神さまが善悪を判断され、裁かれる方ということです。ところが、私たち人間が神さまのようになる、というのは、私たち人間が神さまに成り代わって、自分が裁き手のようになる、審判者のようになる、ということです。実はこれは、私たちがいつも陥りやすいことだと思います。
私たちが、神さまを信じて、キリスト者になる、クリスチャンになる、というのは、ここで蛇が言ったように、「神のように善悪を知るもの」となる、ということではありません。自分が神さまのようになる。自分が正しい者である、自分が裁き手、審判者になる、ということではありません。私たちは神さまの前には、一人の罪人に過ぎないのです。神さまだけが正しい方、真実な方です。その方に愛され、赦され、生かされているのが私たちです。神さまの愛を喜び、神さまの義、正しさに従って生きる。それがキリスト者、クリスチャンとして生きるということです。
 蛇の誘惑により、男と女、最初の人アダムとエバは神さまから食べてはならない、と言われていた善悪の知識の木の果実を食べてしまいました。
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 善悪の知識の木の果実を食べた結果、どういうことになったのでしょうか?「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。彼らの目は開けた。それは、今まで気づいていなかったことに気づいた、ということです。何に気づいたのか、というと、自分たちが裸であったことに気づいた、ということです。
 創世記2章25節には、男と女の創造の記事が書かれています。そこには、こういうことが書かれています。
2:25 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。
 アダムとエバ、二人は裸であったけれども、恥ずかしがりはしなかった、というのです。ところが、先ほどお読みした箇所では「自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあるように、裸であることを恥と思い、その身をいちじくの葉で腰を覆った、というのです。
 8節からお読みします。
3:8 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。
「どこにいるのか。」
3:10 彼は答えた。
「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 神さまの歩く音が聞こえると、二人はどうしたでしょうか。彼らは神さまの顔を避けて、園の木の間に隠れた、というのです。神さまを避け、隠れた。このことから分かることは何でしょうか?神さまとの関係ということです。神さまを避ける関係、神さまから隠れる関係になってしまった。それは神さまに対する信頼とか、安心ということとは正反対の関係です。しかも、アダムは神さまにこうも言っています。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」。アダムは、神さまという方が恐ろしい方だと言っています。
 新約聖書のマタイによる福音書25章14~30節には「タラントンのたとえ」と言われるイエスさまのたとえ話があります。ここには主人が自分の僕たちに財産を任せて旅に出て、帰って来た後のことが書かれています。五タラントン、二タラントン、一タラントンとそれぞれの財産を任された僕たちでしたが、五タラントンと二タラントンを任された僕たちは主人に財産を任されたことを喜び、そのお金で商売をしてもうけました。一方、一タラントンを任された僕はそのお金を土の中に埋めて、無くならないように、盗まれないようにしたということです。このたとえ話の主人というのは神さまのことで、僕たちというのは私たち人間のことです。五タラントンと二タラントンを任された僕というのは、主人との信頼関係に生きている人です。彼らは、私の主人は私のことを愛している、大切にしている。そのことを知って、その喜び、感謝をもって、主人の愛に応えていったのです。一方、一タラントンを任された僕というのは、主人の愛を知らない人です。だから、主人に対して、こう言っています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」(マタイ25章24節)。私にとって、主人というのは、恐ろしい、厳しい方・・・。本当の主人の姿を知らず、あの五タラントン預けられた僕、二タラントン預けられた僕のように、主人の期待に喜んで応えて生きることをしなかったのです。この僕のように、神さまという方を、自分の勝手な思い込みやイメージで留まっていて、神さまが愛の方であることを知らずにいるなら、私たちの信仰生活は、恐れに支配されてしまい、喜びのないものになってしまうのです。
 今日の箇所に戻りましょう。神様は二人が自分を避け、隠れていることを知って、こう言われました。「どこにいるのか」。口語訳聖書では、「あなたはどこにいるのか」となっていました。「どこにいるのか」、「あなたはどこにいるのか」。私はこの言葉を読んだ時、これは恐ろしい言葉だと思っていました。神さまが、ご自分の言葉に背いた、従わなかったアダムとエバの罪を追求する、責め立てる言葉、そのように思っていました。しかし、この聖書の言葉を繰り返し読んでいくうちに、そうではない、と思うようになりました。「どこにいるのか」、「あなたはどこにいるのか」。これはご自分のもとから離れて、迷ってしまった人たちを必死に探し求め、ご自分のもとに立ち返るようにと呼びかける神さまの招きの言葉ではないでしょうか?今、私はそのように信じています。

(むすび)
 教会は福音を伝えます。それは神さまがご自分から離れてしまっている人たちに「私のもとに帰っておいで」と呼びかける神さまのメッセージを伝えることです。神さまは、私のもとに帰って来るように、と呼びかけておられる、待っておられるのです。私たちもその声を聞いて、神さまのもとに帰って来た一人一人ではないでしょうか?裸のままで、つまり、そのままで、ありのままで私たちを愛し、赦し、受け入れてくださる神さまのもとに帰って来たのです。
今日の個所で、アダムとエバが裸であることを恥じた、恐れた、ということが書かれていましたが、私たち人間は、裸ではいけない、自分の身を守ろうと、いろいろなものを鎧や兜にして身に付けようとします。そして、それで自分を守ることができると考えてしまうのです。しかし、本当に私たちを守ってくださるのは神さまです。ですから、私たちは裸のままで、そのままで、ありのままで主のもとに行くのです。そして、そこで神さまの守りを知るのです、神さまと共にある平安を知るのです。すべての人々に向けられた神さまの招きを知る私たちは、「あなたはどこにいるのか」、この神さまの招きを、呼びかけを伝えていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
神さまは、私たちに呼びかけます。「あなたはどこにいるのか」と。神さまは、私たちと一緒に歩んでくださる方です。罪とは、神さまから離れて、神さまとの関係を断って生きることです。神さまの呼びかけ、招きを聞き、神さまに立ち返る私たちでありますように。また新たに神さまと一緒に歩む方がありますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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