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「種を蒔く人」マタイによる福音書13章1~23節 2024/09/01 SUN.

「種を蒔く人」マタイによる福音書13章1~23節 2024/09/01 SUN. 赤塚教会礼拝説教

2024年9月1日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「種を蒔く人」
聖書―マタイによる福音書13章1~23節
(はじめに)
イエスさまが人々に福音を語られた。その場面が、お読みした聖書個所に書かれていました。福音、それは、「良い知らせ」ということです。誰にとっての良い知らせなのでしょう?イエスさまが語られた良い知らせ、それは、私たちすべての者にとっての良い知らせなのです。では、良い知らせとは何か、というと、イエスさまが私たちを罪と死から救うためにおいでになったということです。そして、イエスさまと一緒に生きることこそが本当の幸い、救いなのです。でも、私たち人間の心は頑ななので、そのことをなかなか受け入れることができないのです。もっと別の福音が、良い知らせがあるのでは、と思って、あちらに、こちらにと迷い生きる私たち・・・。しかし、イエスさまは、ご自分が語られる良い知らせ、これこそが本当に良い知らせであることに気づくように、と私たちをあきらめないで、語り続けておられる、今も語り続けておられるのです。

(聖書から)
さて、お読みした聖書個所は、マタイによる福音書13章1節からです。説教題は、「種を蒔く人」と付けました。イエスさまが、種を蒔く人のたとえ話を語られた、という内容です。3~9節を読んでみます。
13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。13:9 耳のある者は聞きなさい。」
これが、イエスさまが語られた種を蒔く人のたとえ話です。3節に、「イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた」とありますが、イエスさまがなぜ、たとえを用いて語られたのか。そのことについては、10節以下に書かれています。
13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
イエスさまの弟子たちが、イエスさまがたとえを用いて語られることについて質問しています。すると、イエスさまは、このようにお答えになりました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」。「あなたがた」というのは、イエスさまの弟子たちのことです。イエスさまの弟子たちには、天の国の秘密を悟ることが許されている。けれども、あの人たちには、そのことは許されていない。
ところで、天の国の秘密とは、何でしょうか?お読みしているマタイによる福音書で「天の国」と書かれている言葉は、「神の国」という言葉でも表すことができます。天の国、神の国。イエスさまは、ガリラヤで福音宣教を始められました。その時、語られた第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4章17節)ということでした。悔い改め、それは、人生の方向転換ということです。自分の方に向いていた歩み、つまり、自己中心の生き方から、神さまの方を向いて歩みなさい。天の国は近づいたから。イエスさまがおいでになったことで、天の国、神の国は始まったということです。そのことを、弟子たちは知っています。しかし、それ以外の人たちには、秘密になっている、隠されてしまっているというのです。それはなぜかというと、罪が原因なのです。神さまの方を向くことをしない、というその罪が、天の国を、神の国を見えなくしてしまっているのです。
13節の言葉を読んでみますと、「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」とありました。たとえを用いて話す理由がここにも書かれていました。なぜ、イエスさまはたとえを用いて話すのか。それは、彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからだ。イエスさまがたとえを用いて話されることで、彼らは、自分が見ることができないこと、聞くことができないこと、理解することができないことに気づかされる、というのです。そして、この後の14、15節には、旧約聖書・イザヤ書の引用があります。
13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
これは、イエスさまが、これまで話したことは、聖書に書かれていたことの実現だ、聖書に書かれている通りなのだ、と言われたのです。
一方、弟子たちについて、イエスさまは、このように語っておられます。
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」と言われます。先ほどの13節には「見ても見ず、聞いても聞かず」とありました。またイザヤの言葉の引用の中には、「心は鈍り」、「心で理解せず」とありましたが、この「見ている」、「聞いている」というのは、比喩的な言い方です。ここでイエスさまが言われているのは、心の目で見る、心の耳で聞く、ということです。あなたがたの心の目は何を見ているか?あなたがたの心の耳は何を聞いているか?あなたがたは、本当に見るべきものを見ている。あなたがたは、本当に聞くべきものを聞いている。そういうあなたがたは幸いだ。あなたがたは、幸いな人だ、とイエスさまは言われたのです。イエスさまの弟子たちは、このイエスさまの言葉を聞いて、大きな励ましを受けたと思います。そして、イエスさまは、再び、たとえ話を語られます。今度は、たとえ話に説明を加えて語られます。
13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」
私たちは、この種を蒔く人のたとえ話をどのように聞くでしょうか?ここで、種というのは、福音のこと、イエスさまの言葉、聖書の言葉と理解することができると思いますが、自分は果たして、福音を素直に受け入れてきただろうか?道端に蒔かれた種の話、石だらけの所に蒔かれた種の話、茨の中に蒔かれた種の話のようなことをしてきたのではないだろうか?と反省することばかりになってしまうのではないかと思います。それはそれで、自分の信仰の在り方を点検すること、吟味することで、大切なことだと思いますが、私たちはそこで留まらないで、このたとえの四番目の話に耳を傾けたいと思うのです。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」。私たちは、道端、石だらけの所、茨の中のような者ではありません。私たちは、良い土地なのです。なぜ、そのようなことが言えるのかというと、イエスさまが、私たちを耕してくださるからです。私たちは、初めは道端のような、石だらけの所のような、茨の中のような者だったかもしれません。けれどもイエスさまは、そういう私たちをあきらめないで、根気よく、忍耐強く、種を蒔き続けてくださっているのです。み言葉によって私たちの心を耕し続けてくださっているのです。種を蒔く人、それは、イエスさまのことです。イエスさまが蒔き続けてくださっている種、語り続けてくださっている福音、それは私のための福音なのだ。そのことに気づいて、この福音を受け取っていく時、私たちは、ここに語られているように、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶのです。

(むすび)
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人」とありました。み言葉、神さまの言葉を聞いて悟る。悟る、とは、理解する、分かる、ということです。「御言葉を聞いて悟る人」、マルコによる福音書では、「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4章20節)となっていました。ルカによる福音書では、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」(ルカ8章15節)とより具体的に書かれていました。イエスさまの言われることを本当に悟る、理解する、分かるようになったら、私たちは聞くだけでは終わらないと思います。イエスさまの語られる言葉に心を動かされて、この言葉によって生きていこう、と決心するのではないでしょうか?イエスさまを私たちの人生にお迎えして、その言葉によって生きるなら、その人の人生は実を結ぶ。イエスさまはそのことを語っておられるのではないでしょうか。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまは、人々に種を蒔き続けておられます。福音を語り続けておられます。
イエスさまは私たちのためにおいでになりました。天の国、神の国がやって来ました。イエスさまは、私たちが、この方を、私たちの人生にお迎えして歩む時、私たちの人生は実を結ぶと語っておられます。どうか、新たに主をお迎えする人たちがありますように導いてください。また私たちもイエスさまと一緒に福音の種を蒔く者として用いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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