ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. キリストの祝宴 マタイによる福音書14章1~21節 2024/11/03

キリストの祝宴 マタイによる福音書14章1~21節 2024/11/03

キリストの祝宴 マタイによる福音書14章1~21節 2024/11/03 赤塚教会礼拝説教

聖書―マタイによる福音書14章1~21節
(はじめに)
 今日の説教題は、「キリストの祝宴」としました。しかし、この聖書個所を読んでみてお分かりのように、ヘロデという人の誕生日のお祝いの様子が書かれていました(6節)。つまり、この箇所の前半には、ヘロデの祝宴のことが書かれています。ところが、後半では、キリストの祝宴のことが書かれているのです。キリストの祝宴とは何でしょうか?今日の聖書の言葉から聴いていきたいと思います。
 
(聖書から)
 さて、今日の前半の聖書個所から見ていきたいと思いますが、ここに出てくるヘロデについては、「領主ヘロデ」(1節)とありました。私たちが、ヘロデという名前を聞いて思い起こすのは、イエスさまがお生まれになる時に、イエスさまがユダヤ人の王として生まれる、という話を、東方から来た占星術の学者たちから聞いて、イエスさまの命を狙おうとした王さまのことだと思います。この王さまの名前もヘロデと言いますが、その息子が、今日の聖書個所に出てくる領主ヘロデと言われる人です。父親の方は、ヘロデ大王と呼ばれ、息子のヘロデは、ヘロデ・アンティパスという名前で知られた人です。
 領主ヘロデは、イエスさまの評判を聞いていた、ということです。イエスさまが、神さまの福音を人々に宣べ伝える働きをされていたことを聞いたのでしょう。そのイエスさまのことを、ヘロデは、家来たちに、こう言った、ということです。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(2節)。このように言った、ということは、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネとも言いますが、ヨハネはこの時、死んでいた、ということです。死んでいたヨハネが死者の中から生き返った。そこで、あのイエスという人が人々を癒したりするその奇跡の力が働いているのだ、と言っているのです。
 では、バプテスマのヨハネは、どうして死んだのか、というと、その理由は今日お読みした聖書個所の3節以下に書かれています。3~5節を読んでみますと、「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである」ということです。
 ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻を奪ったことで、バプテスマのヨハネから批判されていたのです。「あの女と結婚することは律法で許されていない」ということですが、ヨハネは、ヘロデが行ったことは、神さまの律法から見ると、正しいことではない、と言ったのです。バプテスマのヨハネは、どこまでも、神さまに忠実に生きようとした人でした。そして、人々にも、神さまの目に正しいことを求めていきましょう、神さまに従っていきましょう、と語っていった人でした。しかし、そのことのために、ヘロデによって投獄されることになったのです。そればかりか、ヘロデは、ヨハネを殺そうと考えていましたが、それはできませんでした。お読みした聖書に書かれていますように、「ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたから」ということです。
 ヘロデにとって、バプテスマのヨハネは、自分のことを批判する都合の悪い存在でした。そういうヨハネのことは亡き者にしたかったのです。でも、民衆は、ヨハネのことを預言者と思っていました。神さまの言葉を私たちに伝えてくれる人。ヨハネ自身も神さまに忠実に生きようとしていた人として、人々に慕われていたのです。そういうヨハネを殺すようなことをしたら、人々は反発して、暴動でも起こってしまうのではないか・・・、とヘロデは、人々を恐れたのです。
 そのヘロデの誕生日の出来事が6節以下に書かれています。ヘロデの妻となったヘロディアの娘が、誕生日のお祝いの席で踊りを踊った時、ヘロデは大変喜び、娘に、願うものは何でもかなえてやろう、と言いました。すると、ヘロディアの娘は、母親から唆されて、バプテスマのヨハネの首を求めたのです。これは、ヘロデにとっては驚きでしたが、誓ったことであり、また客の手前もあるということで、ヨハネを殺してしまったのです。ヘロデは、自分の誕生日というお祝い、祝宴の席でしたが、何とも血なまぐさいことが起こってしまったのです。
 12、13節をお読みします。
14:12 それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。
14:13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。
 お読みしたところからは、イエスさまの悲しむ様子が伝わってくると思います。バプテスマのヨハネという人は、イエスさまとは親類関係にありました。そればかりか、イエスさまが救い主としておいでになる、そのことを人々に伝えた人でした。そのヨハネが殺されてしまったのです。神さまの救いを、福音を伝える同志であったヨハネが死んで、イエスさまは大変悲しまれたことと思います。けれども、13節には、このようなことが書かれていました。「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った」。イエスさまの評判を聞いた人たちは、イエスさまを求めて、追いかけてきたのです。イエスさまは、独り、悲しみの時を過ごすことも許されないまま、人々と向き合うこと、出会うことになります。14節をお読みします。
14:14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。
 ここで印象的なのは、「大勢の群衆を見て深く憐れみ」ということです。イエスさまは、人々を見て深く憐れまれたのです。この「深く憐れみ」という言葉は、「腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られ」(岩波訳)とも訳される言葉です。断腸の思いと訳してもよいでしょう。主は、憐れみから、病にある人を癒された、ということです。このように、イエスさまという方は、私たち一人一人を深く憐れまれる、断腸の思いで見ておられる方なのです。私たちが、自分では気づいていない弱さ、貧しさ、罪・・・。私たちのすべてを主は知っておられるのです。ですから、私たちは、私たちのすべてをご存じのイエスさまに、自分を委ねていきたいと思うのです。イエスさまに自分のすべてをさらけ出していきたいと思うのです。
 15節以下、五千人の供食、イエスさまが五千人の人たちに食べる物を与えた話が書かれている有名な聖書個所です。15節から読んでみましょう。
14:15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」14:16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」14:17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」14:18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、14:19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。
 イエスさまのもとに大勢の人々が集まってきました。イエスさまは、彼らに福音を語られたことでしょう。それは、随分長い時間だったのでしょうか、夕方になってしまった。そこで、イエスさまの弟子たちは、イエスさまにこのような提案をします。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」。すると、イエスさまは、こう言われました。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。この集まりの人数は、21節に「女と子供を別にして、男が五千人ほど」とありますが、五千人というのは、男性だけの数ということですから、その倍以上の人数だったのではないでしょうか。そんな沢山の人たちだから、各自で食事を用意してもらうようにしましょう、と弟子たちは言ったのです。ところが、イエスさまは、弟子たちに向かって、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われたのです。弟子たちは、イエスさまの言われたことに驚き、自分たちの持っているもの、用意できるものはどれだけであるか、自分たちの現状、現実をイエスさまに伝えました。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。それに対して、イエスさまは言われました。「それをここに持って来なさい」。パン五つと魚二匹で、どうやって、五千人、いや五千人以上の人たちを食べさせることができるのでしょうか?イエスさまは、そのわずかな食べ物をご自分のところに持ってくるように、と言われました。19節以下を読んでみましょう。
14:19 そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。14:20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。14:21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。
 イエスさまは、弟子たちが持ってきたパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡されました。弟子たちはそのパンを群衆に与えました。「天を仰いで賛美の祈りを唱え」とあります。「天を仰いで祝福し」(聖書協会共同訳)とも訳すことができる言葉です。イエスさまは、神さまを賛美されたのでしょう。また、イエスさまは、そこに集まっている群衆を祝福されたのでしょう。また、「天を仰いで」とありますから、神さまを見上げた、ということでしょう。そこから、起こった出来事、それが、パンと魚がそこに集まっていたすべての人たちに行きわたった、満腹した、ということでした。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。そのわずかな、その小さなものが、神さまによって用いられたのです。
 五つのパンと二匹の魚がみんなに行きわたった、というこの出来事は、私たちにはどう考えても信じられないようなことです。でも、イエスさまがなさる時、私たちの思いを超えたことが起こるのです。弟子たちは、自分たちには、五つのパンと二匹の魚しかありません!と主に率直に言いました。主の前に立つ時、私たちはこの弟子たちのように、自分のありのままを申し上げたらよいと思います。しかし、そこで留まってはなりません。主は、弟子たちの言葉を聞かれ、弟子たちにこのように言われました。「それをここに持って来なさい」。「それ」とは何でしょうか?これだけしかありません、これだけしかできません。自分の持っているもの、自分のできることでしょうか?それを主のもとに持っていくのです。「それ」とは何でしょうか?小さな、弱い自分のことでしょうか?そうであるならば、そういう自分を主のもとに持っていくのです、主のもとに行くのです。そうするならば、主は、小さな、弱い私たちを用いてくださいます。

(むすび)
 今日の説教題を「キリストの祝宴」と付けました。しかし、最初にお話ししましたように、今日の聖書個所の前半は、ヘロデの祝宴と言える内容でした。ヘロデの祝宴とは何でしょうか?自分を祝う。自分の栄光を求める。そして、命を奪う。それがヘロデの祝宴でした。キリストの祝宴とは何でしょうか?神さまをお祝いする。神さまの栄光を賛美する。そして、命を与える。それが、キリストの祝宴です。この祝宴を私たち教会は、これまでずっと続けてきました。主の晩餐式、それはキリストの祝宴です。主の晩餐が意味すること、それはイエス・キリストの十字架です。主は、私たちが生きるために、ご自分の肉を裂かれ、血を流されました。そのことによって、私たちは罪から救われ、永遠の命に与かる者とされました。この命に与かる方がありますように、これからも、救い主イエス・キリストを伝えていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 私たちは、いつも五つのパンと二匹の魚しかありません、と自分の小ささ、弱さに嘆いてしまう者です。しかし、主は、弟子たちに言われたように、そういう私たちにも、「それをここに持って来なさい」と言われます。私たちは、その言葉を信じて、小さいままで、弱いままで、主のもとに行き、主のご用のために、どうぞ、この私を用いてください、と祈る者にしてください。主の救いのみわざが表されますように。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧

アーカイブ

月を選択