神の子として生きる ヨハネの手紙Ⅰ 2章28節〜3章10節
(はじめに)
お読みしました聖書個所は、ヨハネの手紙一2章28節から3章10節です。新共同訳聖書では、「神の子たち」という小見出しが付けられていました。神の子たち、神さまの子どもたち。誰のことでしょうか?私たちは、神さまから造られた一人一人です。そして、神さまから愛されている一人一人です。神さまの子どもたち。それは、私たちのことです。神さまを信じている人は、聖書から、私たちが神さまの子どもであることを知ります。けれども、まだそのことを知らない人たちがたくさんいます。その方々に、あなたは神さまの子どもですよ。あなたは神さまに愛されている人ですよ、と伝えていくこと、それが伝道ということではないでしょうか。
(聖書から)
さて、2章28節の言葉を読んでみましょう。
2:28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
ヨハネの手紙を書いたヨハネは、このように呼びかけます。「子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」。「御子」というのは、イエスさまのことです。イエスさまの内にいつも留まりなさい、と言っています。「御子の内」、イエスさまの内とありましたが、内というと、私たちが普段使う言葉では、「身内」という言葉があります。家族、親類ということです。他には、漢字にすると、字が違いますが、「おうち(家)」という言葉があります。「今日は、おうちにいらっしゃいますか?」というと、家のことです。在宅していますか?という意味です。イエスさまの内にいつも留まりなさい。別の聖書の訳を見てみました。特に意味が分かるように優しく訳されている聖書では、「キリストに堅く結び付いていなさい」(現代訳)とか、「主との親しい関係を保ちなさい」(リビングバイブル)と訳されていました。「御子の内にいつもとどまりなさい」。小さな子どもにも、この聖書の言葉を分かるようにするには、どうしたらいいだろうか、どういう言葉になるだろうか、と考えてみました。身内、おうち・・・。イエスさまの家族とされていることをいつもおぼえていましょう、とか、イエスさまのおうちにいつもいましょう、という言葉はどうでしょうか?
28節は、この後、「そうすれば、御子の現れるとき、・・・御子が来られるとき」と続きます。イエスさまが現れる時、イエスさまが来られる時。これは、再臨と言って、イエスさまが、再びおいでになることを言っています。イエスさまが再びおいでになる時というのは、誰にも分かりませんが、私たちは、神さまの約束として信じていくのです。この現れる時、来られる時というのも、イエスさまが私たちのところに帰ってくる時、と言ったら、この聖書の言葉が言っていることについて、何かイメージが湧いてくるかもしれません。
続いて、2章29節をお読みします。
2:29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
「あなたがたは、御子が正しい方だと知っている」。私たちは、イエスさまが正しい方、何も間違いのない方だということを聖書の言葉から知らされています。イエスさまは、罪のないお方です。罪のないお方なのに、私たちの罪をすべて十字架にかかって、引き受けてくださいました。私たちは、イエスさまによって罪を赦され、罪から救われました。ここで「正しい方」というのは、ただ何の間違いもないというだけでなく、私たちのために、ご自分の命をささげてまでして、罪から救ってくださった、ということも含めて言っているのです。ルカによる福音書23章47節には、イエスさまが十字架にかかり、死なれた姿を見て、百人隊長が言った言葉が書かれています。何と言ったかご存じですか?百人隊長は、十字架のイエスさまを見て、こう言ったのです。「本当に、この人は正しい人だった」。
29節の後半には、「義を行う者も皆、神から生まれている」とあります。義というのは、正しいことという意味です。でも、人間の正しさということではありません。ここで言われているのは、神さまの正しさということです。人間の正しさというのは、自分の正しさを誇ります。そして、正しくない人を裁きます。しかし、神さまの正しさはそれとは違います。神さまの正しさの前には、私たちすべての人間は、誰一人正しい者はいない、ということが明らかにされます。神さまの正しさに比べたら、私たちの正しさというのは、表面的であったり、部分的であったりします。イエスさまは、山上の説教の中で、私たちの心の中の罪を問われました(マタイ5章28節参照)。どんなに正しいことを行っていても、心の中で正しい思いを持っていなければ、それは罪だ、とイエスさまは言われたのです。そういう私たち人間は、すべて裁かれなければならないのですが、私たちのために、イエスさまは十字架におかかりになることで、すべての罪を赦し、そればかりか、私たちの人生を一緒に歩んでくださって、神さまの喜ばれる生き方へと導いておられるのです。
3章1節の言葉をお読みします。
3:1 御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
「御父」というのは、神さまのことです。すべてのものをお造りになった創造主、父なる神さまのことです。その神さまのことを考えなさい、と言われています。神さまがどんなに私たちのことを愛しておられるか、そのことを考えなさい、というのです。この「考えなさい」という言葉は、「知りなさい」(岩波訳)と訳している聖書もあります。
神さまがこの私を愛しておられる。そんなの当たり前だ!そのようにお考えになる方がおられるでしょうか?その反対に、神さまがこの私を愛しておられる?そんなはずはない。なぜなら、私の願いを神さまは叶えてくださらないではないか・・・。神さまの愛を当然のことのように考えるのも、神さまは私を愛していない、と考えるのも、どうでしょうか?どちらも神さまのことを、神さまの愛をまだ本当には知らないのではないか、と思うのです。
皆さんは、信仰の成長ということについて考えたことがあるでしょうか?信仰の成長、いったい何をもって成長と言うのでしょうか?信仰が成長している人とは、何も悩みのない人のことでしょうか?伝道や奉仕に明け暮れている人が、信仰が成長している人というのでしょうか? 今、お読みしました言葉、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」というのは、信仰の成長を考えるうえでとても大事な言葉だと思います。信仰の成長というのは、何か私たちの側で立派な行いをしているとか、立派に見える人とか、そういうことではないと思います。信仰の成長というのは、神さまの愛を知ることの成長ではないでしょうか。ああ、私は神さまに愛されているなあ!こんなこと、あんなこと、言ってしまった、やってしまったけど、そんな私を神さまは赦してくださって、何度も何度もやり直しさせてくださって、本当に感謝だなあ!神さまなしでは自分はやっていけないなあ!そういう気づき、神さまの愛を、赦しを受けて自分は生かされているという気づき・・・。そんなことを考えてみますと、信仰生活で最も大事なことというのは、神さまを知るということ、神さまの愛を知るということではないかと思います。
3章2、3節をお読みします。
3:2 愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。3:3 御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
ここには、「自分がどのようになるかは・・・」ということが言われています。先ほど、信仰の成長という話をしましたが、神さまの愛を知る人は、その愛によって成長するのです。そして、ここに書いてありますように、「御子に似た者となる」のです。つまり、イエスさまに似た者になるのです。コリントの信徒への手紙二3章18節には、こういう言葉があります。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」。「主と同じ姿に造りかえられていきます」とあります。これは、イエスさまを信じるみんなのことです。私にはそんなことはないだろう。私には無理と言われる方があるかもしれませんが、この言葉のすぐ後には、「これは主の霊の働きによることです」とあります。主の霊、聖霊の働きによって、イエスさまを信じる人は、イエスさまと同じ姿に造り変えられていく。今日のヨハネの言葉で言えば、イエスさまに似た者にされるのです。この私もイエスさまに似た者にされる。このことを信じてみませんか。そして、そのイエスさまのことを、イエスさまの愛をもっともっと知っていこうではありませんか。
3章6節と9節をお読みします。
3:6 御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません。
3:9 神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。
ここには、「罪を犯しません」ということが言われています。罪を犯さないためには、どうしたらよいかというと、「御子の内にいつもいる人」、「神から生まれた人」とあります。イエスさまといつも一緒にいることです。私たちは、自分の日々の歩みを振り返ってみると、イエスさまのことを忘れていることが多いのではないでしょうか。イエスさまを忘れて、自分の思いや考えばかりで歩んでしまう・・・。「絶えず祈りなさい」(一テサロニケ5章17節)という聖書の言葉があります。絶えず祈れ、と言っても、一日中祈っていたら何もできなくなるじゃないか、と言う人もいますが、いつでもどこでも、事あるごとに祈ったらいいのです。仕事中でも、声に出さなくても、心の中で、神さま、どうしたらいいですか?神さま、助けてください!何でも祈ったらいいのです。「御子の内にいつもいる人」とありましたが、イエスさまは、いつも一緒におられます。私たちは、いつも私たちの傍らにおられるイエスさまに祈ることができるのです。
(むすび)
「神の種がこの人の内にいつもある」とありました。「神の種」というのは、何でしょうか?ある人は、聖霊のことだと言っています。聖霊がいつもその人の内にある。聖霊が、罪を犯さないように守ってくださる。9節の言葉は、そう理解してもよいでしょう。また、種とありましたが、種というのは、蒔かれたら、やがて根が出て、芽を出て、成長していきます。もしかすると、私たちの成長のことを言っているのかもしれません。けれども私たちは、自分の頑張りだけで、努力だけで成長することはできません。では誰が成長させてくれるのでしょうか?「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(一コリント3章7節)とあります。神さまは日々、私たちに命の水を注いでくださり、私たちの神の種を成長させてくださいます。神さまは日々、私たちに愛を注いでくださり、神の子である私たちを成長させてくださいます。神さまを希望として歩みましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
あなたが、私たちを神の子としてくださったことを感謝します。さらに私たちが神さまの愛を深く知り、神の子とされた喜びで満たしてください。
神さまに愛されていることを知らない方が多くおられます。私たちもかつてはそうでした。しかし、そういう私たちは祈られて、福音を伝えられて、生きて働かれる主の救いのみ手が伸ばされて、主を知り、信じる者とされました。私たちも友のために祈り、また福音を分かち合う者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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