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板橋 教会

「最も小さい者に与えられた恵み」エフェソの信徒への手紙3章1~13節 2023/11/26 SUN.

「最も小さい者に与えられた恵み」エフェソの信徒への手紙3章1~13節 2023/11/26 SUN. 赤塚教会礼拝説教

聖書―エフェソの信徒への手紙3章1~13節
(はじめに)
 世界バプテスト祈祷週間の礼拝を行っています。この一週間、皆さんには、祈りのカレンダーに基づいて、お祈りと献金の支援をお願いします。全世界に福音が宣べ伝えられますように、世界中のいたるところで、主と出会う方がありますように祈り、ささげていきましょう。

(聖書から)
 お読みしました聖書の言葉は、エフェソの信徒への手紙3章1節からです。この手紙を書いた使徒パウロは、このように語っています。
3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。
 パウロは、自分のことを「囚人」と言っています。パウロがここで「囚人」と言っている、これには、二つの意味があります。一つは、パウロは実際に囚人として、ローマの獄中に入っていたということです。福音を伝えること、語ることで投獄されたのです。そして、もう一つの意味は、「キリスト・イエスの囚人」とありましたように、パウロは自分がキリストに捕らえられた者と考えていたのです。フィリピの信徒への手紙3章12節には、このようなパウロの言葉があります。
3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
 「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」。それは、喜ばしいことなのです。なぜなら、パウロも、そして、私たちもキリストに捕らえられる前は、罪に囚われていたからです。キリストに捕らえられるとは、罪から解放された、ということなのです。
続いて、パウロは、このように語ります。
3:2 あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません。
 パウロは、あなたがたエフェソの教会のために神さまが私に恵みを与えてくださったことをあなたがたは知っているでしょう、と言っています。その恵みとは何であるか、この後に語られています。
3:3 初めに手短に書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました。3:4 あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているかが分かると思います。
 「秘められた計画」とあります。「秘められた計画」というのは、「奥義」(口語訳、新改訳)とか、「秘儀」(聖書協会共同訳)とも訳されます。それは私たち人間に対して、秘められた、隠された計画ということです。さらに4節には、「キリストによって実現されるこの計画」とあります。つまり、秘められた計画とは、私たち人間には、秘められていた神さまのご計画であり、この計画は、イエス・キリストによって実現されるというのです。
3:5 この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。
 「キリスト以前の時代」とあります。私たちが使用している暦、それは西暦と言われるものです。今年は2023年ですが、正式には、紀元2023年、AⅮ2023年と言います。このADというのは、anno Domini(アンノ ドミニ)という言葉を略したもので、主の年という意味です。主、つまり、私たちの主であるイエス・キリストがおいでになってから、2023年ということです。
キリスト以前、イエス・キリストがおいでになる前は、この計画、神さまの救いのご計画を人々は知りませんでした。しかし、イエス・キリストがおいでになって、聖霊によって、この救いのご計画は人々に表された、ということが言われています。
3:6 すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。
 先週は、同じエフェソの信徒への手紙から、ユダヤ人と異邦人がイエスさまによって、一つにされた、ということが書かれている箇所を読みました。イエス・キリストの福音は、ユダヤ人だけでなく、異邦人、すなわち、ユダヤ人以外のすべての人々にも宣べ伝えられ、これを信じる人たちは、「約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となる」とありますように、神さまの救いにあずかり、一緒にキリストの体である教会を形成する者となった、というのです。
 続いて、7節以下をお読みします。
3:7 神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。3:8 この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、3:9 すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。
 パウロは、神さまによって、この恵み、福音に仕える者とされた、と言っています。8節には、「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました」とあります。パウロは、自分のことを「聖なる者たちすべての中で最もつまらない者」と言っています。「最もつまらない者」。別の訳では、「最も小さい者」(口語訳)と訳されています。
 私たちは、時々、こういうことをつぶやくかもしれません。「自分は何とつまらない者だろうか」。人生の失敗や挫折を経験すると、何か事柄が順調にいっていないと、自分のことを嘆いたりするかもしれません。それでは、パウロも自分のことを嘆いていたのでしょうか?お読みした聖書の言葉とよく似た言葉が別の個所にもありますので、その箇所を読んでみたいと思います(一コリント15章9節)。
15:9 わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。
 ここでもパウロは、自分のことを「使徒たちの中でもいちばん小さな者」と言っています。さらには「使徒と呼ばれる値打ちのない者」とも言っています。なぜ、ここまで、自分のことを言うのでしょう?自分を卑下しているというか、卑屈になっているとも思えるように聞こえますが、ここには理由が語られています。「わたしは、神の教会を迫害したのですから」。かつて私は神さまの教会を迫害していた。神さまに対して、私は罪を犯してしまった。この罪の意識から、このように語っているのです。しかし、パウロは、そこで留まりませんでした。同じコリントの信徒への手紙一には、こういう言葉が続けられています(一コリント15章10節)。
15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。
 神さまの恵みによって、今の私があるのだ、と言っています。これは自分の罪が赦されたことを信じる者の喜びの言葉です。今日の個所でも「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました」とありますように、私はこの恵み、イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪を赦され、神さまの救いのご計画のために働く者とされました、と喜びの言葉を語っているのです。

(むすび)
 私たちも、自分は小さな者、つまらない者と思うようなことがあるかもしれません。ある人は、体や心の弱さや欠けなどを考えて、そういう私を神さまは、神さまの働きに用いることはなさらないだろう・・・、と思うかもしれません。この手紙を書いたパウロ自身、肉体的に、あるいは精神的に、何か病があった、ハンディキャップがあったと言われています。そのことについて、パウロは、それは自分に与えられた「とげ」(二コリント12章7節)と言っています。そして、そのとげが取り去られるように、パウロは何度も祈った、と書いていますが、神さまの答えはこのようなものでした(二コリント12章9、10節)。
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。12:10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
私の弱さの中に生きて働かれる神さまの力。このことをパウロは体験したのです。私は、この箇所を読むたびに思い起こすのは、神学生時代、奉仕教会として、通っていた教会の牧師先生のことです。その先生というのは、福岡市にあります香住ケ丘バプテスト教会の当時の牧師の藤井健児先生です。藤井先生は幼い時にひき逃げに遭い、片方の視力を失い、その後、もう一方の視力も失い、完全に失明されました。しかし、人生に大変失望している中で、目白ヶ丘教会に通い、イエスさまに出会いました。そして、その後、牧師として献身され、イエスさまの福音を宣べ伝えられました。この藤井先生との出会いによって、信仰を持たれ、医師として、パキスタンで、またアフガニスタンで活動されたのが、皆さんもご存じと思いますが、中村哲さんです(中村哲さんは2019年にアフガニスタンで銃撃され、亡くなられました)。弱さの中に生きて働かれる神さまの力によって、藤井先生が、また中村哲さんが神さまの器として用いられていったことを思います。
もう一度、9節をお読みして終わりたいと思いますが、「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています」とパウロは語りました。「どのように実現されるのか」とありました。私はこの言葉を読んで、わくわくする思いがしました。神さまの救いのご計画がどのように実現されるのか。私たちは神さまご自身に期待していきたいと思うのです。パウロは、自分は最もつまらない者、小さい者と言いました。このように言えたのは、神さまの偉大な力を知っていたから、信じていたからだと思います。私たちも、神さまの偉大な力を信じて、私を主の御用のためにお用いください、と祈りつつ、歩もうではありませんか。お祈りします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 世界バプテスト祈祷週間をおぼえて、礼拝を行っています。
 主は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)と言われました。しかし、私たちは小さな者であり、福音を宣べ伝えるのにふさわしい者であるか、戸惑います。
 パウロは、恵みによって、神さまの恵みによって、と繰り返し語ります。小さな、罪深いこの私を神さまはその恵みによって用いてくださると信じて、立って行ったのでしょう。私たちも神さまの恵みによって用いてください。神さまの救いのご計画のために用いてください。
 私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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