
私の愛する子、私の心に適う者 マタイによる福音書17章1~13節 2025/03/16
聖書―マタイによる福音書17章1~13節
(はじめに)
お読みした聖書個所は、「六日の後」(1節)という言葉から始まります。これはいつから数えて、六日の後なのでしょうか。先週の礼拝では、マタイによる福音書16章13~28節からお話ししました。そのすぐ後が、今日の聖書個所になります。
六日前にイエスさまと弟子たちとの間にあったことは何でしょうか。「あなたはメシア、生ける神の子です」(16章16節)というペトロの信仰告白がありました。またイエスさまが弟子たちに、ご自分が死ぬこと、復活されることを話された(16章21節)、ということがありました。それから、一週間近く経ちました。弟子たちは、イエスさまと自分たちの関わり、イエスさまの語られたことを思い起こしながら、一日一日を過ごしてきたことでしょう。
(聖書から)
さて、1節をお読みします。
17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
ここで気になることは、イエスさまは、ペトロとヤコブ、そして、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた、と書いてあることです。なぜ、ペトロとヤコブ、ヨハネの三人だけなのでしょうか?
まもなく、受難週、そして、復活祭、イースターを迎えますが、イエスさまが捕らえられる直前の出来事、ゲツセマネの園での祈りの場面には、次のようなことが書いてありました(26章36、37節)。
26:36それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
イエスさまはご自分の弟子たちとゲツセマネに行かれました。そして、三人の弟子たちを連れて、祈りに行きました。その三人というのが、「ペトロおよびゼベダイの子二人」とありますが、これはペトロとゼベダイの子ヤコブ、そして、ヨハネのことです。イエスさまがまもなく捕らえられ、十字架におかかりになる時のことです。祈るために、この三人を連れて行かれた、ということです。
今日の聖書個所に戻ります。2節をお読みします。
17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。
イエスさまのお姿が変わった、ということです。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」とあります。神々しい、とか、神さまの聖さが示されているように思えます。そればかりか、モーセとエリヤが現れた、ということですが、モーセとエリヤとイエスさまが語り合っていた。モーセとは、律法の象徴と言える人、エリヤとは、預言者の象徴と言える人です。その二人とイエスさまが語り合っていた、というのです。
ルカによる福音書にも、これと同じ内容の聖書の記事があります。ルカによる福音書では、もう少し詳しい内容になっています(ルカ9章30、31節)。
9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
何を話し合っていたかが書かれています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。三人が話していたこととは、エルサレムで遂げようとしておられる最期、つまり、イエスさまが十字架におかかりになることについて話していた、ということです。
さて、この様子を見ていたペトロは、次のようなことを提案します。
17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
ペトロについて、「ペトロが口をはさんでイエスに言った」。イエスさまとモーセ、エリヤが話しているところにペトロが割って入った、ということでしょうか?ペトロはこう言っています。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
ペトロは、何か素晴らしいことが起きていると思ったのでしょう。でも、三人が話していたことについては、何も触れていません。聞いていなかったのでしょうか。三人の姿を見るだけでもう胸がいっぱいになっていたのでしょうか。ペトロは、自分が感激した思いをそのまま伝えたのかもしれません。それが、イエスさまのために、モーセのために、そして、エリヤのために仮小屋を建てるということでした。
仮小屋を建てる、というのは、どういう意味があるのかというと、聖書の舞台であるこの地域では、大切な客に対して、敬意を払って仮小屋を建てる、という習慣があった、という説明を聞いたことがあります。また、ある説明では、仮小屋を建てる、というのは、記念碑を建てるような意味であると言います。このように、諸説ありますが、ペトロとしては、この素晴らしい出来事を目撃したからには、これをいつまでも忘れないでいたい、記念したい、という思いがあったのではないでしょうか。すると、次のようなことが起こります。
17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
「ペトロがこう話しているうちに」とあります。ペトロが仮小屋の話をしている途中のことでしょうか?光り輝く雲が彼らを覆って、雲の中から、このような声が聞こえたというのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。神さまの声でしょうか?「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とは、神さまのみ子であるイエスさまのことでしょうか?
ペトロのことを振り返ってみますと、ペトロは、イエスさまとモーセ、エリヤが話しているところに口を挟んで、仮小屋の話をしました。すると、今度は、ペトロが話している途中で、光り輝く雲が覆って、神さまの声が聞こえたのです。イエスさまとモーセ、エリヤの話を遮って、話し出したペトロでした。しかし、今度は、ペトロの言葉を遮って、神さまが語られたのです。それが、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」ということでした。
「これに聞け」。私は、この言葉に心を刺される思いがしました。イエスさまの言葉に聞け、と私に語られているように思いました。私も、この時のペトロと同じように、神さまの言葉を聴くよりも、神さまの言葉を遮って、自分の思い、自分の考え、そういったものを優先させていることが多い者です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」とこの私に語られていると思いました。
今日は朝礼拝後に、教会総会が行われますが、教会とは、神さまの言葉に聴く群れです。「これに聞け」とあるように、新しい年度も、神さまの言葉に聴く、神さまの言葉を何よりも優先する、大事にする群れとして歩んでいきたいと思うのです。
17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。
弟子たちは、神さまの言葉を聴いて、ひれ伏し、そして、非常に恐れた、ということです。神さまの言葉に対して、神さまに対して、ひれ伏し、恐れることは大事なことです。ひれ伏すとは、神さまを礼拝することです。恐れるとは、ただ怖がるというのでなく、神さまを神さまとして崇める、重んじる、という意味の畏れです。畏れのない信仰というのがあります。神さまを信じていると言いながら、神さまを軽んじる。礼拝を軽んじる。教会を軽んじる。教会に連なる兄弟姉妹を軽んじる。自分の罪が赦されたことを忘れ、救われた喜びが見失われると、畏れのない信仰に陥ることがあるのです。そのことは気をつけなければなりません。
17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
主は、弟子たちに言われました。「起きなさい。恐れることはない」。本当の畏れを知ったら、私たちはどんなことがあっても、起き上がることができるのです。「七転び八起き」ということわざがありますが、神さまは、私たちを起き上がらせてくださるのです。恐れることはない。世のただ中を生きている私たちは、いろいろなことを恐れます。恐れ、不安、悩み・・・。しかし、神さまを畏れたら、神さまが共におられることを知ったら、私たちは恐れから解放されるのです。畏れが恐れを解放させるのです。
(むすび)
17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
弟子たちが顔を上げて見ると、そこには、イエスさまの他には誰もいませんでした。さっき見ていたものは何だったのだろうか?夢か、幻か?確かに彼らは、幻を見た、と思えるような体験をしました。ある方は、この幻について、私たちが考える幻、幻想ということではない。彼らは、神さまの現実を見たのだ、と言っています。神さまの現実を見た。私たちは、自分が見ることができること、それが現実だと考えます。見えることがすべてだと考えます。しかし、聖書から知らされること、それは、神さまの現実です。神さまは、目には見えません。けれども神さまはおられる。神さまは生きて働いておられる。私たちは、そのことを信じています。それが、神さまの現実を見るということです。
「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」。顔を上げるとは、信仰を持って、信頼を持って歩んでいくということです。その時、主が共におられることが分かるのです。2025年度の教会の歩みも、主が共におられることを信じて歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまが、三人の弟子たちと高い山に登り、そこで主のお姿が変わり、主はモーセとエリヤと語られました。それは、神々しい、素晴らしい、神さまの栄光の姿と思えるものでした。その時、一緒に山に登った弟子たちは、後に主が十字架におかかりになる直前に、ゲツセマネで祈りを共にした弟子たちでした。主の栄光、それは、十字架の救いのみわざです。イエス・キリストが、私たちを罪から救い出してくださった出来事です。
私たちの教会を、これからも救いのみわざを宣べ伝える教会として用いてください。新たに救いにあずかる人たちがありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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