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なぜ赦すのか マタイによる福音書18章21~35節 2025年7月13日

なぜ赦すのか マタイによる福音書18章21~35節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

聖書―マタイによる福音書18章21~35節
(はじめに)
 先週に続いて、マタイによる福音書18章の言葉をお読みしました。先週は、この章の15~20節をお読みしましたが、そこでは、「罪」の問題について、教会は、つまり、キリストを信じる私たちはどのように対処したらよいのか、ということを聴いていきました。その後の21節以下ですが、ここでは、「赦し」の問題が書かれています。信仰生活において、そして、人間関係において、「罪」の問題、「赦し」の問題というのは、とても大事なことです。人と人が共に生きるところ、そこでは、常にこの問題が起こってきます。

(聖書から)
 さて、まず21節の言葉をお読みします。
18:21 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」
 イエスさまの弟子の一人であるペトロがイエスさまにこのようなことを言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」。ペトロがイエスさまのところに来て言った、というのです。ペトロの方から、イエスさまに「赦し」についての質問をしたのです。しかし、その質問というのは、もうすでにペトロには答えがあるような言い方です。「何回赦すべきでしょうか」。そこで話は終わっていません。「七回までですか」と言っています。
 聖書の舞台であるユダヤにおいては、ユダヤの教師たちは、三回まで赦しなさい、と教えていたそうです。三回までは赦しなさい。皆さんは、こういうことわざを聞いたことがあると思います。「仏の顔も三度まで」。ユダヤの教師たちも同じことを言っているのでしょうか?けれども、ここでペトロはこう言っています。「七回までですか」。ユダヤの教師たちは、三回までは赦しなさい、と言っていますが、私は七回までは赦します!そう言っているのでしょうか?
 これをお聞きになったイエスさまは、ペトロに対して、三回までとは言わないで、七回まで私は赦そうと思います、と言っている。それはたいしたものだ。そのように言われたのでしょうか?いいえ、イエスさまはペトロに対して、このように言われました。
18:22 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
 イエスさまは言われました。「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。計算の早い人は、イエスさまは七回どころか、七の七十倍、つまり、四百九十回赦しなさい、と言われた、と思われるかもしれません。しかし、イエスさまが言われたのは、そういうことではありませんでした。七という数字、それはユダヤにおいては完全、完成という意味がありました。その七の七十倍というのは、無限に、どこまでも、という意味だそうです。七回どころか、無限に赦しなさい、どこまでも赦しなさい、とイエスさまは言われたのです。
 これを聞いたペトロはとても驚いたことでしょう。私たちもこの聖書の言葉は何度も読んでいるかもしれません。もうすでにその意味も分かっているかもしれません。でも実際に無限に、どこまでも、となると、これはとても難しい。赦すということは難しいと思うのではないでしょうか。
 イエスさまは、この後、ある譬え話を語られました。23節以下に、その話が書かれています。ある王さまが家来たちに貸したお金の決済をしようとした、というところから話は始まります。
18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。18:26 家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
 一万タラントン借金している家来がいました。一万タラントンというのは、どれだけの金額の価値でしょうか。ある人が計算すると、一万タラントンというのは、二十万年分の労働賃金の価値と言っています。つまり、数えきれないほどの莫大な借金ということです。とうてい返済することはできません。そこで主君である王さまは、自分も妻子も、持ち物も全部売って返済するように、と命じました。家来はどうしたかというと、「ひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った」ということです。すると、おうさまはどうしたかというと、「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」とあります。
 「憐れに思って」とあります。この言葉は、「腸がちぎれる想い」(岩波訳)と訳すことができる言葉です。王さまは、この家来のことを本当にかわいそうに思って、心から赦したのでしょう。借金は帳消しにされた、ということです。
 これが、この譬え話の前半の部分です。28節以下に後半の部分が書かれています。
18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。18:29 仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。18:30 しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。18:31 仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。18:32 そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。18:33 わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
 莫大な借金を免除された家来でした。この家来は、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に会いました。百デナリオンというのは、百日分の労働賃金の価値だそうです。借金を帳消しにされた家来は仲間に借金を返すように言います。しかし、仲間はすぐには返すことができなかったのでしょう。「仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ」とあります。二十万年分の労働賃金の借金を赦された家来でした。その家来が自分に借金している仲間に対してどうしたかというと、「承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた」ということです。この様子を見ていた人たちは、王さまにそのことを告げたということです。それを聞いた王さまは家来を呼びつけて言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」。
 私たちが、罪とか赦しということを考える時、真っ先に考えるのは、自分が誰かによって被った罪ということではないかと思います。他人の罪のこと、あの人やこの人の罪ということではないかと思います。でも、自分が誰かに罪を犯すということは想像もつかない、考えもしないかもしれません。
 ペトロはどうだったのでしょうか?私は七回赦します!でも、自分が誰かに罪を犯すということは考えていなかったかもしれません。自分が罪人、罪ある者とは考えていなかったかもしれません。そういうペトロに対して、イエスさまはこの譬え話を語られました。それが王さまに莫大な借金をした家来の話でした。
 この譬え話の主君である王さまというのは、誰のことかというと、神さまのことです。そして、家来というのは、誰のことかというと、私たち一人一人のことです。私たちは神さまに対して、莫大な借金をしている者なのです。それはあまりにも大きすぎて返すことはできないのです。そういう私たちに対して、神さまは、「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」とあるように、私たちの借金は帳消しにされた、というのです。
 ペトロはこの譬え話を聞いて、どのように受け止めたのでしょうか?そのことについては何も書いてありませんから分かりません。私たちはこの譬え話を、どのように聴くのでしょうか?受け止めるのでしょうか?誰かを赦そうと思う。そういう私たちですが、私たち自身が赦されなければならない者、神さまの前には一人の罪人、それもあの莫大な借金があった家来のように、自分でその罪を克服することはできないのです。王さまは憐れに思い、家来を赦しました。私たちも神さまの愛によって罪が赦され、罪から解放された一人一人なのです。
 ところが、自分が一人の罪人であること、罪を赦されたことも忘れてしまっている。私たちはそういう繰り返しではないでしょうか。イエスさまが、七の七十倍、どこまでも赦しなさい、と言われたのは、あなた自身が神さまによってどこまでも赦されている。そのことを知りなさい、そのことを忘れてはいけないということなのではないでしょうか。教会に集う私たちは、主にある兄弟姉妹と共に主の愛を、主の赦しを思い起こして新しい週の歩みを始めていきたいと思います。

(むすび)
この譬え話の最後でイエスさまはこのように言われました。
18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」
 あなたがたが心から兄弟を赦さないなら、神さまもあなたがたを赦さない、ということでしょうか?ペトロは、私は三回と言わず、七回赦します!と言いました。ペトロは赦すということがどんなに難しいことか、分かっていなかったと思います。ただの一回でも赦すということがどんなに難しいことか。そういう現実に、まだこの時はぶつかっていなかったのかもしれません。だから、イエスさまはこう言われたのです。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら・・・」。心から赦す、ということは難しいことです。口先では七回でも、十回でも赦します!と言えるかもしれません。でも心の中にはいろいろな思いがある。それが私たちの正直なところではないでしょうか。しかし、そういう私たちに主は言われました。「心から赦しなさい」。イエスさまが言われた七の七十倍赦しなさい、とは赦す回数のことではありません。心から赦しなさい、ということです。これは、私たちに赦すということをチャレンジするように言われたことなのではないでしょうか。そして、赦すことができるための大切なヒントも与えてくださったのです。それは、あなたは赦されている。あなたは神さまから赦されている。そういうあなたはどうするか?神さまの赦しを知るあなたは赦すことができる。赦す者として生きていくことができる、ということです。主の私たちに対する愛を、赦しを見つめて歩んでまいりましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主は譬え話を通して、私たち自身が無限に、どこまでも主によって赦された者であることを示してくださいました。私たちは他人の罪には敏感です。しかし、自分の罪は知らずにいる、気づかずにいるような者です。神さまに出会い、神さまと向き合う時、私たちは自分が一人の罪人であることを知らされます。そういう私たちが主の赦しをいただいて生かされていることを感謝します。
主は心から赦しなさい、と語られました。神さまに赦されている私たちは、他人を心から赦す者として生きるように導かれています。主の愛と赦しによって、私たちの頑なな心が支配され、動かされ、新しく歩むことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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