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【礼拝説教】2022年7月31日「主の御力と御業を賛美しよう」

2022年7月31日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「主の御力と御業を賛美しよう」詩編21編1~14節

聖書―詩編21編1~14節
(はじめに)
 詩編21編をお読みしました。詩編は祈りの言葉が語られているもので、詩編から祈りを学ぶことができる。そのように以前、お話ししましたが、詩編は賛美歌と言ってもよいと思います。1節には、「指揮者によって。賛歌」とあります。実際に、この詩編の言葉で神さまへの賛美が歌われていたのでしょう。この詩編21編の最後の14節にもこのような言葉があります。
21:14 御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。
 「我らは賛美の歌をうたう」とあります。今日も私たちは教会に集い、神さまを賛美しています。主のみ名を崇め、そのみ業を讃えてまいりましょう。

(聖書から)
 詩編21編の本文、内容は2節からです。
21:2 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い/御救いのゆえに喜び躍る。
 神さまに向かって、王は神さまのみ力を喜び祝い、そのみ救いのゆえに喜び躍る、とあります。ここに出てくる王とは、1節に「ダビデの詩」とありましたように、ダビデのことです。ダビデ王が神さまに賛美している様子が歌われています。
 「喜び祝い」、「喜び躍る」とありました。神さまを喜ぶということです。私はこの言葉を読んで、私たちはどうだろうか?また私自身はどうだろうか?と自分に問いかけてみました。正直なところ、神さまを喜ぶということは、日々の生活の中であまりないのではないか、と思いました。皆さんはどうでしょうか。神さまを、神さまご自身を喜ぶということはあるでしょうか?
 ここには、「あなたの御力を喜び祝い」とあり、「御救いのゆえに喜び躍る」とありました。神さまの力、神さまの救いを喜んでいます。神さまはダビデ王に対して、その力、救いを表されました。では、私たちに対してはどうでしょうか。私たちには、神さまはその力、救いを表しておられないのでしょうか?だから、私たちも喜べないのでしょうか?
 いいえ、そうではないと思います。私たちにも、神さまはご自分の力、救いを表してくださっています。でも、私たちの方で、そのことに気づいていなかったり、無関心であったりするのです。
 箴言3章6節に、このような言葉があります。
3:6 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば/主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
 私は口語訳聖書の言葉でおぼえていました。口語訳聖書では、このようになっています。
3:6 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
 私たちの歩む道、そのすべてにおいて主が共におられることを認めなさい、ということです。この後に「そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」とありますが、それは主が共におられるという信仰を持って歩みなさい。そうするならば、主があなたの道を整え、守ってくださる、ということでしょう。
 私たちは、何か出来事があると、しかもそれが自分にとって良いことがあると、「ああ、神さまは私と一緒におられるのだ!」と嬉しくなるわけですが、そうでない時には、「神さまはどこにおられるのか?」と嘆いたり、悲しんだりして、喜ぶことができません。しかし、この箴言の言葉から教えられることは、「常に主を覚えてあなたの道を歩け」、「すべての道で主を認めよ」。何か出来事があってもなくても、主は私たちと共におられる。私たちと共に歩んでくださる。これが信仰、これが見ないで信じる信仰なのです。その時には、喜べないかもしれませんが、後になって分かることがある。後になって、これまでの歩みを振り返ってみると、「ああ、あのときも、このときも主は私と共におられたのか」と気づかされるのです。
 何度か紹介したことがあると思いますが、「あしあと」という詩はそのことを教えています。その詩をお読みします。

                 あしあと
ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。
一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
私は砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。
このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、
私と語り合ってくださると約束されました。
それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」
主はささやかれた。
「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。
あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」(太平洋放送協会)

 この詩の最後に「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた」とあります。主が私たちを背負ってくださる方であることが示されています。私たちはこのことに気づかないでいるかもしれません。しかし、主は私たちを背負ってくださっているのです。私たちはそのことを知り、気づき、この方を喜び、感謝していく者でありたいと思うのです。
 詩編21編3節以下をお読みします。
21:3 あなたは王の心の望みをかなえ/唇の願い求めるところを拒まず〔セラ
21:4 彼を迎えて豊かな祝福を与え/黄金の冠をその頭におかれた。
21:5 願いを聞き入れて命を得させ/生涯の日々を世々限りなく加えられた。
 神さまは、王の心の望みを叶えてくださり、その唇の願い求めるところを拒まれなかった、とあります。神さまは王の祈りを聴いてくださる方です。そして、私たちの祈りも聴いておられることを信じたいと思います。また4節には「豊かな祝福」とか、「黄金の冠」ということが出ています。これについては、この箇所には、王の戴冠式について歌われていると言われています。王の祈りに応えて、神さまが王を即位させてくださった。5節には、命を得させ、生涯の日々を加えられた、とありますが、これは、長寿の恵みが与えられたことが歌われているそうです。このように、王が自分の働きのこと、自分の健康のこと、その一つ一つについて神さまに感謝をささげていることが分かります。
 続く6節以下には、このようなことが歌われています。
21:6 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
21:7 永遠の祝福を授け、御顔を向けられると/彼は喜び祝う。
21:8 王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。
 8節に「王は主に依り頼む」とありました。王が神さまの救い、祝福に生きることができたのは、王が神さまに依り頼んだからです。依り頼む、とは、信頼する、ということです。王は神さまを信頼して歩んだのです。
 9~13節には、王が神さまによって敵から守られたことが歌われています。ところで、私たちにとっての敵とは何でしょうか?今週の祈祷会(8/3)で学ぶ聖書箇所の中に、このようなことが書かれていました(エフェソ6章12節)。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
 私の敵は誰だろう?と考えると、自分が今、対立している人のことなどを思い浮かべるかもしれません。しかし、ここには、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではな」い、とあります。「血肉」というのは、私たちが戦う相手、敵は人間ではない、ということです。むしろ、私たちが新約聖書から聴く言葉は、イエスさまが言われた「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)ということです。私たちの敵、戦う相手は、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」とありますが、私たちを神さまから引き離し、悪へと、罪へと誘うものなのです。王が神さまによって敵から守られたように、私たちも神さまによって敵から守られるように、主の祈りにあります「わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください」(マタイ6章13節)、この祈りを持って歩んでいきたいと思うのです。

(むすび)
 「御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう」(14節)。最初にもお読みしましたが、今日の詩編の最後の言葉です。神さま、あなたのみ力を表してください、と祈り求めることは大事です。しかし、すべての道で主を認める、ということ、主が私たちの歩みにいつも伴っておられることを忘れてはなりません。このことを忘れないように、私たちは目を覚ましていましょう、信仰の目をしっかりと見開いていきましょう。最後に一つのみ言葉を読んで終わります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(一テサロニケ5章16~18節)。いつも主を賛美していきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 詩編21編、王の詩編を読みました。ダビデ王の詩編、あるいはダビデ王についての詩編と言われるものです。主の恵みを喜び、感謝を歌った王でしたが、ダビデの物語を読むとき、その人生は決して順風満帆というものではなかったことを知ります。様々な苦難の中にありましたが、神さまを信頼し、その生涯を生きた王でした。
 私たちも世の厳しい荒波の中にあって、心の目が遮られて、主が共におられることが見えなくなったり、分からなくなったりすることがありますが、それでも変わることなく、主は私たちを愛し、共におられます。主にある兄弟姉妹が互いにそのことを分かち合い、励まし合い、祈り合いながら、主を賛美していくことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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