
覆われた者、赦された者(創世記9章18~29節) 【週報巻頭言】2025年8月17日
カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった。(創世記9章22、23節)
父ノアの醜態を見たハムは、二人の兄弟セムとヤフェトにそのことを告げました。セムとヤフェトはそれを聞いてどうしたでしょうか。「セムとヤフェトは着物を取って自分たちの肩に掛け、後ろ向きに歩いて行き、父の裸を覆った。二人は顔を背けたままで、父の裸を見なかった」と書かれています。「父の裸を覆った」とありました。覆った。この覆うということについては箴言にこのような言葉があります。
愛はすべての罪を覆う。(箴言10章12節)
愛を求める人は罪を覆う。(箴言17章9節)
新約聖書にも「覆う」ということが書かれている言葉があります。
何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。(一ペトロ4章8節)
ハムとセム、ヤフェトの父ノアに対する振る舞いはまったく正反対のものでした。一方は父の裸、これは恥と言ったらいいでしょうか?それを告発する、それを晒そうとした。けれども、一方は父の恥を覆った、というのです。
ハムのような振る舞い、これについては、ハムがどんな気持ちであったのか、分かる気がします。けれども、セムとヤフェトのような振る舞い、どうしてそんなことができたのでしょうか?これについては、私はこんなことを思うのです。セムとヤフェト、彼ら自身が父であるノアにそのように育てられてきた。彼らはノアに愛され、赦されて育てられてきた。またノアから神さまという方がどのような方であるかを聴かされて育てられてきた。そういう彼らは父の恥ずべきこと、弱さと向き合わされた時、自分たちが父から受けてきたように、父から教えられてきたように、父に対しても振る舞ったということではないかと思うのです。
私たちはどうでしょうか?他人の罪、あるいは弱さ、恥ずべきこと、そういったことに直面したらどうするでしょうか?私たちは神さまに愛されている者、神さまに赦されている者。そこからすべてのことを始めていきたいと思います。
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