
「神の証し」 ヨハネの手紙Ⅰ 5章6~12節 2025年8月24日
(はじめに)
お読みした聖書は、ヨハネの手紙一5章6~12節です。この聖書個所について、新共同訳聖書では、「イエス・キリストについての証し」となっています。ところで、証しとは何でしょう?教会でよく聞く言葉の一つです。「良い証しをしなければ」、「そんなことでは証しにならない・・・」。教会の中で、そういう会話がよく聞かれます。お読みした聖書にも「証し」という言葉が出てきます。
(聖書から)
6節からお読みします。
5:6 この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです。水だけではなく、水と血とによって来られたのです。そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです。5:7 証しするのは三者で、5:8 “霊”と水と血です。この三者は一致しています。
イエス・キリストについて、このように書かれていました。「この方は、水と血を通って来られた方、イエス・キリストです」。イエス・キリスト、この方は、水と血を通って来られた方とあります。水と血。これは、何のことを言っているのでしょうか。
水について、それもイエスさまと水について書かれている聖書の言葉を読んでみます(ヨハネ1章29~34節)。
1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼(バプテスマ)を授けに来た。」1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼(バプテスマ)を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』とわたしに言われた。1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
聖書には、ヨハネという名前の人物が何人か出てきます。ヨハネの手紙を書いたヨハネについては、イエスさまの弟子のヨハネであるとか、その弟子で長老ヨハネと言われる人だったとも言われます。そして、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)と言われる人物です。今、お読みした聖書個所に出てきたのは、バプテスマのヨハネと言われる人で、救い主がもうすぐおいでになる、と人々に救い主のことをお知らせした人です。このヨハネは、イエスさまのことをこのように言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。イエスさまのことを「世の罪を取り除く神の小羊」と言いました。「世の罪」というのは、私たちすべての罪ということです。私たちの罪を取り除くために、イエス・キリストはおいでになりました。イエス・キリストは、バプテスマのヨハネに会うと、私にバプテスマを授けてください、と言いました。そこでヨハネはイエスさまにバプテスマを授けました。
教会では、イエス・キリストを救い主と信じると、バプテスマを受けるように勧めます。それは、イエスさまがバプテスマをお受けになったからです。イエスさまは、ご自分がバプテスマをお受けになる時、ヨハネにこう言っています。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3章15節)。「正しいこと」というのは、神さまのみ心に適うことということです。ですから、私たちもイエスさまに倣って、バプテスマを受けるのです。それは、自分が神さまを信じることを公けに表す行為です。信仰を公けに言い表す。信仰告白ということです。
今日の聖書に戻ります。イエスさまと水。それは、イエスさまがバプテスマをお受けになったことを表しています。バプテスマは、神さまを信じることを公けに表す行為、信仰告白と言いましたが、イエスさまは、このことを通して、ご自分が神さまのみ子であり、私たちすべての罪を取り除くために来られたことを表されました。
次に、イエスさまと血ということを聖書から見ていきましょう(一ペトロ1章18、19節)。
1:18 知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、1:19 きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
ここには、「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血による」とありました。先ほどのバプテスマのヨハネの言葉、「世の罪を取り除く神の小羊」とつながっています。ユダヤの人たちは、自分たちの罪の犠牲のささげものとして、雄牛や雄山羊をささげました。それは繰り返し行われるものでしたが、イエス・キリストがご自分をささげられたことによって、その犠牲は完成したのです。ヘブライ人への手紙10章10節には、「御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされた」と書かれています。そして、これこそが、イエス・キリストが十字架におかかりになった意味です。
「水と血を通して来られた方」、イエス・キリストと水、イエス・キリストと血。そのことについて、幾つかの聖書からお話ししましたが、6節後半には、このようなことが書かれていました。「そして、“霊”はこのことを証しする方です。“霊”は真理だからです」。ここで「“霊”」というのは、聖霊、神さまの霊のことです。イエス・キリストが神さまのみ子、救い主であることを信じることができるのは、聖霊によることです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(一コリント12章3節)のです。
続いて、9節をお読みします。
5:9 わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです。
最初に、証しということについてお話ししました。良い証しをしなければ・・・、こんなことでは証しにならない・・・。聖書が言っている証しとは、何かというと、イエス・キリストを証しすることです。自分の立派さ、自分の正しさ、そういうことを証しするのではありません。私たちを通して、私たちを用いて、生きて働いておられる神さまを証しするのです。お読みした9節には、「人の証し」と「神の証し」とありますが、「人の証し」というのは、裁判などの証言のことを言っています。私たちが神さまから求められていることは、私たちが「神の証人」となること、私たちが、人々にイエス・キリストを証しすることです。私たちはそれが上手にできるかできないか、心配します。私も説教というのは、やはり、イエス・キリストを証しすることだと思っていますから、説教が終わった後に、今日の説教はうまくできただろうか、ちゃんとイエスさまのことが伝えられただろうか、と心配します。けれども、ここには、こういうことが言われていました。「神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」。
神さまご自身が、神さまのみ子についてなさった証し、それは、イエスさまがバプテスマを受けて始まる公生涯と言われるもの、イエスさまの地上における歩みであり、イエスさまが私たちを罪から救うためになされた十字架のみわざです。私たちが伝えるべきは、私たちの立派な行い、私たちの善い行いということではありません。神さまのみ子イエスさまの愛、イエスさまの恵みを伝えるのです。私たちがうまく証しができるだろうか、うまく説教ができるだろうか、そのことを心配するよりも、私たちを通して、神さまの愛が、恵みが人々に伝わることが最も大事なことなのです。
(むすび)
10節からお読みします。
5:10 神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。5:11 その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。5:12 御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません。
「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり」とありました。神さまを信じる者には、その人の内に神さまの証しがある、というのです。神さまの証しがこの私の内にあるとは、どういうことでしょうか?11節には、そのことが別な言い方で表されています。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということ」。神さまの証しが私たちの内にある。それはどういうことかというと、私たちに、み子イエス・キリストの命、永遠の命が与えられたということです。
今日は、イエス・キリストについての証しについて、神さまの証しについて、この聖書の言葉から聴いてまいりました。私たちは何を証しするのでしょうか、誰を証しするのでしょうか。私たちはイエス・キリストを証しするのです。イエス・キリストの神さまが、私たちになさった愛と恵みを人々に証ししていく、表していくのです。私たちを通して、イエス・キリストを知り、出会う方々がありますように祈っていきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
「神が御子についてなさった証し」とありました。神さまは、私たちにご自身を表してくださいました。み子イエス・キリストを私たちのところにお送りくださり、私たちに分かるように、ご自身を表してくださいました。
私たちは、証しという時、戸惑います。自分の弱さ、足りなさ、そういったことを思い、悩みます。しかし、使徒パウロはこのように言いました。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(二コリント4章5節)。
そうです、私たちは自分自身を宣べ伝えるのではありません。キリストを宣べ伝える者です。水と血と霊とありました。キリストの地上における歩み、私たちの弱さ、苦しみを担って歩まれたこと、キリストの十字架の救い、私たちを罪から救ってくださったことを聖霊の力によって宣べ伝えます。どうぞ、あなたがこのことのために私たちを用いてくださって、一人でも多くの方が主にお会いすることができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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