
「天まで届け?」 創世記11章1~9節 2025年8月31日
聖書―創世記11章1~9節
(はじめに)
お読みした聖書個所には、バベルの塔の物語が書かれています。バベルの塔の物語は、一般的にもよく知られている話です。ブリューゲルという人の絵画でもよく知られています。バベルの塔のバベル、これは、お読みした創世記11章9節に出てきます。そこには、このように書かれていました。
11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
バベルとは何かというと、バビロンのことです。これをお読みした9節では、バラルという言葉、これは「混乱させる」という意味ですが、この言葉と絡めて説明しています。すると、バベルの塔、それは、混乱の塔ということになるでしょうか。
(聖書から)
戻りまして、11章1節をお読みします。
11:1 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。
ここで「世界中」というのは、私たちが考える世界中のことか、それとも、特定の地域に限定されて言われていることなのかは分かりません。しかし、ここでは、世界中は同じ言葉を使っていた。つまり、みんな言葉が通じる人たちであった、ということが言われています。そして、それに続いて、2節には、このようなことが書かれています。
11:2 東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。
お読みしたように、2節には東の方から移動してきた人々が、シンアルの地の平野を見つけ、そこに住み着いた、ということです。すると、3節では、人々が、話し合ったことが書かれています。どういうことを話し合ったのでしょう?3節をお読みします。
11:3 彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。
石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトと用いた、ということですが、これは文化、文明の進歩を表しているように思えます。私たちの生きているこの世界も、文化、文明が進歩してきました。現代はその進歩というのが、小刻みで、とても速いスピードで起こっているように思います。今年は、昭和の元号で言いますと、ちょうど百年目ということで、テレビなどでこの百年の世界、日本の歩みがどうなってきたのか、そういう特集番組などが放映されています。百年前と今の違いにも驚きますが、ここ二十年、三十年の間にも、生活スタイルなどがずいぶん変わりました。先日、ある方と話していましたところ、その方は、今の時代はどんどん便利になってきている、いろいろなものが進歩してきている。けれども、ただ一つ、進歩していないのは人間なのではないか?と言われるのです。人間は進歩していない。そのことを具体的に、罪の問題であるとか、悪の問題などに触れて言われました。いつまで経っても、人間はどの時代にあっても罪を、悪を克服できない。戦争や争いが絶えないのがそのことを表しているというのです。私も本当にその通りですね。モノや道具は進歩していく、便利になっていくけれど、人間の心や生き方はどうなのでしょうね?と答えました。皆さんはどのように思われるでしょうか?
石かられんがに、しっくいからアスファルトに、と人々はより優れた材料を使うようになりました。道具や様々な生活の用具も進歩していきました。そういう彼らはあることを思い立ちます。4節をお読みします。
11:4 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
彼らが考えたこと、このことについて、二つのことを見ていきます。一つは「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」ということです。天まで届く塔のある町を建てよう。高い建物というと、私は地方に住んでいましたから、高層ビルというのはあまり見たことがありませんでした。ところが、高度経済成長の時代には、地方都市でも高層マンションがどんどん建つようになり、街の風景も変わっていきました。
さて、高い建物を、高い塔を建てようとする目的は何だったでしょうか?ここにはこのように書いてあります。「有名になろう」。口語訳聖書では「名を上げて」とありました。有名になろう、名を上げよう。これが彼らの目的でした。この「有名になろう」ということについて、ある牧師先生は、神を必要としない、神抜きの世界を築こうとした、という意味であると説明しています。つまり、私たち人間はこれだけ文化が、文明が発達し、進歩しているから、神など必要はない。私たちだけで何でもできる。私たちは神をも超えた存在なのだ・・・。そういう世界に向かって行こうとした、ということになるでしょうか。
もう一つ、このようなことも書かれていました。「全地に散らされることのないようにしよう」。自分たちが一つになって、まとまって、力を合わせて頑張れば、何か大きなことができるに違いない。神を超えていく存在になることができるに違いない。彼らはそのように考えたのではないでしょうか?5節にはそういう人々の様子を神さまがご覧になったことが書かれています。
11:5 主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て
ここで「主は・・・見て」ということに注意していただきたいと思います。主は見て、神さまはご覧になって。私たちにとって大事なことはこのことです。私の視点、私の考え。それも大事なことです。しかし、神さまを信じる者にとってもっと大事なこと、それは神さまの視点、神さまのお考えです。神さまがどう見ておられるか、ということです。神さまは人々の様子をどのように見ておられたのでしょうか?6、7節をお読みします。
11:6 言われた。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。11:7 我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」
神さまは彼らを混乱させた、というのです。7節にはこのようにありました。「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。言葉を混乱させた。互いの言葉を聞き分けられないようにされた。神さまは、人々が一つにまとまって大きなことを成し遂げようとしていたのに、なぜ、こんなことをされたのでしょうか?
あるご家族の話です。ある方が自分の家族のことで相談に来られました。その方はこのように言われました。「私と家族では、言語が違うのです。言葉が通じないのです!」それはどういうことでしょうか?家族がそれぞれ違う国の人で、言語も違うということでしょうか?いいえ、そうではありません。同じ言語、同じ日本語であっても、言葉が通じないというのです。これは、私たちにもしばしば起こってくることではないでしょうか。ここに「互いの言葉が聞き分けられぬように」とありました。聴き分ける、理解する。このことができなくなってしまうようなことが私たちにもあるのではないでしょうか。その原因は何でしょう?それは互いの心が相手に対して閉じられている時ではないでしょうか。相手のことを理解しようとしない。自分は正しく、相手は間違っている、と決めつけている。そういう関係、状態の時、互いの言葉が聴き分けられなくなるのではないでしょうか。
バベルの塔の話について、ある方はこう言われました。天まで届くように、神を無視して生きていこうとする時、彼らはお互いの言葉が通じなくなってしまった。お互いがそれぞれに自分の方が上だ、あの人よりも上だ、と自分をまるで神のような者と思っていった時、言葉が通じなくなってしまった。一致ではなく、混乱するようになった。このように人間は、互いが神さまを見上げ、神さまを目指して生きるのでなければ、混乱に陥る、バラバラになってしまうのだ、というのです。
結局、バベルの塔の建設は中断されてしまいます。そのことについては、8、9節に書かれています。
11:8 主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。11:9 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
彼らは自分たちが目指していたものによって、自ら混乱していった。その結果がこれだったのです。
6節に「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ」とありました。混乱の原因は神さまでしょうか?いいえ、自分たちが行ったことの結果です。一つの民であっても、一つの言葉であっても、何を目的にしているか、何を語り合うかで一致ではなく、混乱に陥ってしまうのです。
(むすび)
全地に散らされていった人たち。彼らは自分たちの力で天に届くことを、神のようになることを目指して一つになったつもりでした。しかし、そのような生き方は一つになることはできないのです。
この聖書箇所と併せてよく読まれる聖書箇所があります。それは新約聖書・使徒言行録2章の聖霊降臨、ペンテコステの記事です。そこには祈りによって、聖霊によって一つにされた弟子たちの姿があります。神さまは彼らに言葉を与え、語らせました。
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
2:5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、2:6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。2:7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。2:8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。2:9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、2:10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、2:11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
弟子たちの言葉を聞いた人たちというのは、バベルの塔の時とは対照的で、一つの民ではなく、一つの言語でもありませんでした。しかし、一つの民でなくても、一つの言語でなくても、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」とあるように、同じ言葉を聴いたのです。「神の偉大な業」を聴いたのです。文化や文明がどんなに進歩しても、人間は変わりません。しかし、ただ一つ、人間が変わる道があります。それは神さまの言葉を聴いて生きるということです。神さまを賛美し、神さまを礼拝して生きるという道です。「天まで届け?」という説教題を付けました。創世記に書かれていた「天まで届け」、これは自分たちの力の誇示、高い塔が神さまの領域まで届くように、という野望でした。しかし、使徒言行録に書かれていた「天まで届け」はそれとは違います。神さまを賛美し、礼拝する。神さまに対する喜び、感謝が天まで届くように、ということです。私たちの神さまに対する喜び、感謝も天まで届くように、神さまに届くように。そのことを願いながら、新しい週を歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちは何を求めて生きているでしょうか。神さまを超えるため、自分たちの名を上げるため、バベルの塔の町を建設しようとした人たちの姿がありました。私たちもこれと同じことを繰り返すことがありませんように。
人が一つになるのは、お互いを理解するのは、神さまの言葉によることです。神さまの言葉によって、罪から離れて、自分を神のようにする心が打ち砕かれて、私たち一人一人が新しくされますように、互いを愛する、互いを大切にする心、生き方に変えられていきますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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