
バベルの塔からペンテコステへ(創世記11章1~9節) 【週報巻頭言】2025年9月21日
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。・・・ ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」(使徒言行録2章5~11節)
創世記11章1~9節のバベルの塔の物語は、人間が一つになって自分たちの力で天に届くことを、神のようになることを目指した話でした。しかし、そのような生き方では一つになって前に進むことはできないのです。
この聖書箇所と併せてよく読まれる聖書箇所があります。それは新約聖書・使徒言行録2章の聖霊降臨、ペンテコステの記事です。そこには祈りによって、聖霊によって一つにされた弟子たちの姿があります。神さまは彼らに言葉を与え、語らせました。
弟子たちの言葉を聞いた人たちというのは、バベルの塔の時とは対照的で、一つの民ではなく、一つの言語でもありませんでした。しかし、一つの民でなくても、一つの言語でなくても、「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」とあるように、同じ言葉を聴いたのです。「神の偉大な業」を聴いたのです。
文化や文明がどんなに進歩しても、人間は変わりません。しかし、ただ一つ、人間が変わる道があります。それは神さまの言葉を聴いて生きるということです。神さまを賛美し、神さまを礼拝して生きるという道です。私たちの神さまに対する喜び、感謝も天まで届くように、神さまに届くように。そのことを願いながら、歩んでいきましょう。そこに私たちの新しい一歩があるのです。
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