ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. メッセージ
  4. 神は何でもできる(マタイ19章16~30節) 【週報巻頭言】2025年10月5日
聖書の画像 板橋の教会

神は何でもできる(マタイ19章16~30節) 【週報巻頭言】2025年10月5日

イエスさまのもとに来て、永遠の命を得るためにはどんな善いことをしたらよいのか(マタイ19章16節)、と質問した人がいました。その人は、自分の不完全に気づいて、自分に失望して、主のもとから立ち去りました(同22節)。そのやり取りを聞いていた弟子たちはこのように言っています。

弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。(同25節)

これは弟子たちの率直な言葉です。いったい、誰が救われるのでしょうか?イエスさまは弟子たちに言われました。

イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。(同26節)

ここでイエスさまが「彼らを見つめて」とあるように、弟子たちを見つめて言われた、というのは印象的です。イエスさまが弟子たちに本当に言いたかったこと、伝えたかったことがこのことなのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。

弟子たちは「だれが救われるのだろうか」と言いました。誰が救われるのか?救いを得るのは、永遠の命を得るのは、天の国に入るのは、人間にできることではないのです。人間がどんなに神さまの掟を守ろうと頑張っても、善いことに励んでも、できることではないのです。しかし、「神は何でもできる」。しかし、神さまが、私たちを救ってくださる、と主は言われたのです。

これを聞いたペトロはこのようなことを言いました。

すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」(同27節)

ペトロには、自分は何もかも捨てて主に従ってきた、という自負心があったようです。あの真面目な青年ですら、自分の持ち物を捨てることができなかったけれど、私はすべてを捨てて、あなたに従ってきました。私たちは何かその報いをいただくことができますか?ペトロは、イエスさまが言われたことを理解していなかったようです。しかし、私たちも、このペトロのようなことが度々あるのではないでしょうか。私は、聖書の言葉を学んできたし、神さまのことはよく分かっている。イエスさまに従ってきた。けれども、本当は、分かっていないことだらけ。でもそういう弟子たちを、そして私たちを、主は見つめておられるのです。私たちの不完全さも、罪深さもすべて知っておられるのです。だからこそ、主は言われたのです。「人間にできることではないが、神は何でもできる」。そういうあなたを神さまが救ってくださる。これが私たちの希望、拠り所です。

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧
カテゴリー
アーカイブ
月を選択