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「神は我々と共におられる」マタイによる福音書1章18~25節 2025年12月14日 

神は我々と共におられる マタイによる福音書1章18~25節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
  アドベントの時を過ごしています。神さまが、私たちを罪から救うために、ご自分の大切なみ子であるイエスさまをこの世にお送りくださった出来事、それがクリスマスです。私たちの教会では、来週の日曜日の礼拝をクリスマス礼拝として行います。そして、24日は、クリスマス・イヴ礼拝として行います。私たちは、一人でも多くの方々と一緒にイエスさまのご降誕をお祝いしたいと思います。どうぞ、クリスマスは教会で、イエスさまをお祝いいたしましょう。

(聖書から)
  お読みした聖書の個所は、イエスさまの誕生の経緯が書かれている内容です。イエスさまの誕生については、今日お読みしたマタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれています。ルカによる福音書は、教会学校でお読みしますので、礼拝では、マタイによる福音書から聴いていきたいと思います。18節には、このようなことが書かれています。
1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
 イエスさまの母となる人はマリアです。ここに「母マリア」と書かれています。マリアはヨセフと婚約していました。「二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。「二人が一緒になる前に」。まだ、婚約中で、家庭生活を営む前だった、ということです。マリアは聖霊によって身ごもった、妊娠した、ということが明らかになった、ということです。
 ある牧師先生の説教には、まず、マリア自身が、自分が聖霊によって妊娠していることを知らされ、そのことを夫となるヨセフに伝えた、とありました。ルカによる福音書1章26~38節には、受胎告知と言われる聖書の記事があります。その中には、神さまから遣わされた天使がマリアに、マリアが聖霊によって妊娠すること、救い主を産むことを告げています。これを聞いたマリアは、そのことをヨセフに告げた、というのです。それが、このマタイによる福音書では、「聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」ということだと、その牧師先生は語っておられます。そうしますと、19節に書かれていることはどう考えたらよいでしょうか。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
 お読みした聖書個所について、二つのことが考えられます。一つは、ヨセフはまだ、マリアから聖霊による妊娠ということを聞いていなかった場合です。いったい、マリアに何があったのだろうか?ヨセフはとても不安になっていたと思います。日に日にマリアのお腹は大きくなっていく。これはどういうことなのだろうか?もう一つは、ヨセフがマリアから、聖霊による妊娠ということを聞いていた場合です。マリアからは、聖霊によって自分は身ごもった、妊娠した、というけれども、それも不思議な話であり、信じがたいことだ。どちらにしても、ヨセフは大変思い悩んだことと思います。
 そのヨセフについて、ここには、「夫ヨセフは正しい人であったので」とあります。「正しい人」とは何でしょうか?別の訳では、この「正しい人」というのが、「義(ただ)しい人」(岩波訳)と訳されています。ヨセフの正しさとは何か。それは、ヨセフという人は、神さまの目に何が正しいことなのか。そのことを求めていた人だったのではないかと思います。そうすると、マリアが、自分と一緒になる前に妊娠していた。そのことは、世間一般に考えるなら、マリアが何か間違いを犯したのではないか?と疑いがかかるのではないかと心配したのではないでしょうか。そこで、ヨセフはこう考えたのです。「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。新改訳聖書では、「彼女をさらし者にはしたくなかった」とあります。とてもヨセフの気持ちが分かるような言葉に訳されています。ヨセフの正しさ。それは神さまの目に何が正しいことであるかを求めていただけでなく、マリアを疑ったり、裁くことをしないで、守ろうと考えた。ヨセフは厳格な正しさを追求するための人だったのではなく、愛情の深い人であった、ということが考えられるのではないでしょうか?
 聖書からよく聞く言葉は、愛と義ということです。神さまは愛の方であり、また義の方です。神さまの愛に裏打ちされた正しさ、神さまの正しさに裏打ちされた愛、神さまは愛と義が表裏一体の方です。そして、ヨセフも、神さまという方をそのように信じていたのではないでしょうか?福音書を読んでいきますと、イエスさまが当時の宗教指導者たちと対立する場面が出てきますが、それは、彼らのあり方というのが、神さまの愛と義とは、かけ離れていたからだったのではないでしょうか。神さまの愛と義よりも、自分の正しさを追求し、他人をバッサバッサと切り捨て、裁くようなあり方を主は知られ、主は身を持って、神さまの愛と義を語り、みわざを行なわれたのではないでしょうか。
 思い悩むヨセフでした。そのヨセフに主の天使が夢に現れて語ります。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 「このように考えていると」とあります。口語訳聖書では、「彼がこのことを思いめぐらしていたとき」と訳されています。ヨセフの心境がより具体的な言葉で表されています。思い巡らしていた。マリアのことを考え、またマリアのお腹の中の子供のことを考え、どうしようかと思い悩んでいたのでしょう。そのヨセフに、主の天使は語ります。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。ヨセフはこの言葉を聞いて驚いたことでしょう。「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」。
 先ほど、ヨセフは、マリアから直接、聖霊による妊娠について聞いていたのではないか、ということをお話ししました。もしそうだとしても、聖霊によって妊娠するなんて、そんな話、信じることができない!ヨセフはそれを聞いたとしても、むしろ、混乱してしまったかもしれません。けれども、夢とは言え、主の天使からも同じことを聞いた。これは信じるべきことではないだろうか?と考え出したかもしれません。
 信仰ということを考えてみますと、ああ、これは良い教えだ、とその教えに共感し、納得し、それでは神さまを、聖書の言葉を信じてみようか?という信仰があります。しかし、聖書が教える信仰とはそれだけではありません。マリアが聖霊によって妊娠した。処女降誕と言いますが、聖書にはそういうことも書いてあります。また、イエスさまが十字架にかかって死なれ、三日目に復活された、ということも書かれています。他にもイエスさまが奇跡を行った。人々を癒された。そういうことも書かれています。これは共感するとか、納得するというものではありません。多くの人は、そんな馬鹿なことがあるか!信じられない!と思うでしょう。
 ヨセフも、これまで神さまの教えに忠実に従おうと努めてきました。そういう意味で、ヨセフは正しい人でした。しかし、この出来事は、ヨセフにとっては信じがたいことでした。その信じがたいことをヨセフは主の天使から聞いたのです。
 マリアから生まれる子供について、天使はこう語っています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。イエスという名前、それは、当時、ユダヤにおいてはよくある名前だったそうですが、その意味は、神さまは救いということです。これに続いて、このようなことが書かれています。
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
 ここに書かれていること、それは、救い主がお生まれになることは、旧約聖書の預言者たちが語っていたことなのだ、ということです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。これは旧約聖書・イザヤ書7章14節、8章8、10節の引用です。つまり、救い主が生まれるというのは、聖書の言葉が実現することなのだ、ということです。
 「インマヌエル」。それは、ここに書かれているように、「神は我々と共におられる」という意味で、「インマヌエル」というのは、旧約聖書で使われているヘブライ語です。インマヌエル、救い主が私たちのところにおいでになる。旧約聖書の時代から、ずっと人々は救い主が来られるのを待ち望んでいたのです。その救い主こそが、マリアが聖霊によって妊娠し、生まれる子供なのだ、というのです。ヨセフもまた、救い主を待ち望んでいた人でしたから、とても驚いたことでしょう。眠りから覚めたヨセフはどうしたでしょうか?
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
 ヨセフについて、「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」とあります。「主の天使が命じたとおり」というのは、どういうことかというと、主の天使というのは、神さまの言葉を、神さまのみ心を人々に告げ知らせるという働きをする者です。ですから、「主の天使が命じたとおり」というのは、ヨセフが、神さまの言葉に従った、神さまの言われるとおりにした、ということです。

(むすび)
 信仰とは、共感したり、納得するから信じるという面があります。しかし、それだけでは、信仰ということにはなりません。イエスさまが聖霊によって生まれた。イエスさまが復活された。イエスさまが奇跡を行われたり、人々を癒された。それは、私たちがどう考えても、共感できるものではありません。納得できるものでもありません。ヨセフもマリアが聖霊によって妊娠した、ということを簡単に納得したり、理解した、ということではなかったと思います。ヨセフはただ神さまの言葉だから、神さまが言われることだから、この出来事を受け入れます、信じます、と決心したのです。
 クリスマス。それは、神さまが私たちのためになさった出来事です。私たちはこの出来事を神さまがこの私を救うために、この私が罪から離れて、永遠の命に生きるためになさったことなのだ、と信じていくのです。神さまを信じる。それは何も難しいことではありません。立派な生き方、行いをしなければ、救われないとか、聖書を全部理解しなければ、救われないということではありません。神さまがこの私のためにイエスさまを送ってくださったことをありがとうございます、と受け入れていくこと、イエスさまと一緒に人生を歩んでいくこと、それが神さまを信じるということです。このクリスマス、新たにイエスさまを受け入れ、イエスさまと歩む方がありますようにお祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
クリスマスを迎えようとしています。
あなたが私たちのためにご自分の大切なみ子をお送りくださったことを感謝します。
私たちがみ子イエスさまを私の救い主として受け入れることができますように。そして、イエスさまと一緒に歩むことができますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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