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「心の王座を明け渡して歩もう」マタイによる福音書2章13~23節 2025年12月28日 

心の王座を明け渡して歩もう マタイによる福音書2章13~23節 赤塚バプテスト教会礼拝説教(朝・夕)石堂雅彦牧師

(はじめに)
先週はクリスマス礼拝、クリスマス・イヴ礼拝を行いました。クリスマス・ページェント、聖歌隊、フルート演奏などによって、私たちはクリスマスの喜びを証ししました。礼拝とクリスマスの集会においでになった方々の中から救い主に出会う方がありますように祈っていきたいと思います。そして、まもなく2025年も過ぎ去ろうとしています。この一年も私たちの教会を主が先立ち、導いてくださいました。一年の主の恵みを振り返りながら、主への感謝をささげていきたいと思います。

(聖書から)
  お読みした聖書の個所は、マタイによる福音書2章12節からです。先週の日曜日の礼拝では、東方から来た占星術の学者たちが救い主に出会った個所をお読みしました。学者たちは、主に出会って、喜びました(10節)。そして、主を礼拝し、主に自分たちの最も大切なものを献げました(11節)。最も大切なものを献げるというのは、自分の心の王座を主に明け渡した、ということです。
 12節にこのようなことが書かれていました。
2:12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
 学者たちは、救い主に出会った後、再びヘロデ王のところへ行って、救い主のことを報告する予定でした(8節)。けれども、彼らはヘロデ王のところへは行きませんでした。その理由は、ただいま読んだ聖書の言葉に書かれていました。「「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので」。夢でお告げがあった、とあります。いったい、これはどんなことであったのでしょうか。マタイによる福音書1章20節以下には、主の天使が夢に現れて、ヨセフに語った、ということが書かれていました。マリアが聖霊によって妊娠した。そのことを聞いて、どうしたらよいだろうかと考え込んでいたヨセフのもとに主の天使を通して、神さまの言葉が語られたのです。
 そして、占星術の学者たちにも、神さまの言葉が語られた。それが、2章12節に書かれていることではないでしょうか。ヘロデ王のところに行かなかった。学者たちは、夢で語られた神さまの言葉を聞いて、その言葉に従ったのです。
 13節では、再び主の天使が夢でヨセフに語っている様子が書かれています。
2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
 生まれた幼子とマリアを連れて、エジプトに逃げるように、ということでした。なぜかというと、ヘロデ王が幼子のイエスさまを探し出して殺そうとしているからだ、というのです。
 先週お読みした聖書個所では、ヘロデ王がイエスさまについて、このようなことを言っていることが書かれていました。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」(8節)。しかし、このヘロデ王の言葉は偽りの言葉でした。本当は、ユダヤ人の王として生まれた方、イエスさまを殺すために、学者たちに居場所を知らせてほしいと言ったのです。学者たちがもしもヘロデ王のもとに行ってイエスさまの居場所を教えたならば、イエスさまは危うく殺されるところでした。しかし、学者たちに、そして、ヨセフに告げた神さまの言葉によって、イエスさまはその命を守られることになりました。
 ヨセフは、主の天使が告げた言葉に従って、エジプトに逃げることになりました。14節以下をお読みします。
2:14 ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
 ここには、「エジプトへ去り」とありますが、別の訳では、「エジプトへ退き」(聖書協会共同訳)と訳されています。イエスさまのご生涯というのは、生まれてすぐに、退かねばならなかった。そういうご生涯であったのです。エジプトへ逃げた、退いた。私たちの人生、生き方ということで考えるなら、負け組と言ったらいいかもしれません。どんどん勝ち進んでいく、勇ましい歩み。それとは正反対です。繰り返しますが、逃げなければならなかった。退かねばならなかった。イエスさまのご生涯はそういうものであったのです。ある人は、イエスさまは幼い時から、避難民という境遇に置かれた、と言っています。
 15節には、「それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」とありました。これは、旧約聖書・ホセア書11章1節の引用です。イエスさまのエジプトへの避難。それは、聖書の実現だったというのです。
 16節をお読みします。
2:16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。
 ヘロデ王の怒りがここに表されています。「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った」とあります。けれども、この言葉をよく読んでみると、占星術の学者たちは決して、ヘロデ王をだましたわけではありませんでした。彼らは、夢で聞いたお告げ、それは、神さまからのお告げであったと言いましたが、自分たちの意思、考えによるのではなく、聞いた言葉に従って、ヘロデ王のもとへは行かなかったのです。それを、ここには「ヘロデは占星術の学者たちにだまされた」と書かれています。別の訳を見てみると、「ヘロデは占星学者たちになぶりものにされたと知り、はなはだしく憤った」(岩波訳改訂新版)、「ヘロデは自分が博士たちによって嘲弄されたことを知り、いたく憤った」(田川建三訳)とそれぞれ訳されています。ヘロデ王は自分が軽んじられた、とでも思ったのではないでしょうか。自分はユダヤを治める王なのに、その言葉に従うことをしなかった、自分の言うことを聞かなかった学者たちのことを怒ったのです。
 私はこのヘロデ王の様子が書かれているところを読みながら、信仰生活というのは、大変なものだと思いました。というのは、占星術の学者たちは、夢で語られた神さまの言葉に従っただけなのです。私たちも、神さまを信じているからといって、神さまの言葉に従おうとするわけですが、それは時に、それとは相反する言葉には従わないということにもなるのです。その時、私たちはそのことで葛藤しなければならない。悩まなければならない。私は毎週の礼拝で、祝祷をもって、教会の皆さんを送り出しますが、世にあっては多くの闘いがあると思います。信仰の闘いです。どうか、信仰を失うようなことがないように、弱り果ててしまわないように、と祈らずにはおれません。
 ヘロデ王の怒りにより、大変恐ろしいことが起きてしまいました。16節後半をもう一度お読みします。「そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」。イエスさまを殺そうと考えたヘロデ王でした。しかし、イエスさまがどこにいるのか、その居場所を突き止めることができなかったため、このようなことをしたのです。何ということでしょうか。これは、エレミヤの言葉の実現であると書かれています。
2:17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。
2:18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
 18節で引用されているエレミヤの言葉(エレミヤ31章15節の引用)。それは、わが子を殺された母親たちの声、嘆き悲しむ声です。ヘロデ王は、自分の地位を脅かすユダヤ人の王と言われる存在に不安を抱いた(3節参照)、恐れたのです。そして、その存在を否定するために、亡き者にするために、このような恐ろしいことを行ったのです。無力な小さな命を奪い取る。これは約二千年前の出来事ですが、二千年経った今はどうでしょうか?今もこのような恐ろしい出来事が私たちの世界で、私たちの歴史の中で何度も何度も繰り返されているのではないでしょうか。このようなことを知る時、私たちは、信仰の闘いを続けて行かなければならないことを思い知らされるのではないでしょうか。信仰の闘い、神さまが与えてくださった命を守る、命を大切にするという闘いを続けていくのです。

(むすび)
 19節以下をお読みします。
2:19 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、2:20 言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」2:21 そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。2:22 しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、2:23 ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。
 イエスさまは常に命を狙われていましたから、そこから逃れる、退くという旅が続けられていったのです。先ほど、イエスさまは避難民であった、ということをお話ししましたが、紛争や災害で国を離れなければならない、家を離れなければならない人たちが世界各地におられることを私たちは知っています。イエスさまは、今、その方々の苦しみのただ中に、ご自身の身を置かれておられる、共におられるのではないでしょうか。
 私たちは、年の暮れに、お互いに良い年をお迎えください、と声を交わします。お互いが良い年を迎えることができるように祈り合いたいと思います。また、私たちの生きているこの世界には、命の危機をおぼえながら日々を過ごしている人たちがいます。私たちはその人たちのことを深く知り、祈っていきたいと思います。クリスマス、それはすべての人のために与えられた神さまからの恵みです。この恵み、イエス・キリストの救いがすべての人に豊かに注がれますように祈っていきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
今日お読みした聖書の言葉、ある牧師先生は、「悲しみのクリスマス」という説教題を付けました。クリスマスは、喜びです。しかし、私たちの罪によって、悲しい出来事が起こります。命が命を大切にしない、軽んじてしまう。そして、奪い取ってしまう。そのような私たちの世界のただ中に、悲しみの多いこの世に、救い主はおいでになりました。救い主は小さな、無力な幼子としておいでになりました。私たちが罪から守られ、神さまから与えられた命を、互いの命を大切にするように導いてください。そして、命の源である主イエスの言葉に生きる者にしてください。新しい年も人を生かす言葉が語られ、人を生かす働きが行われていきますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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