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【礼拝説教】2022年2月13日「ゲツセマネの祈り」

2022年2月13日(日)(朝・夕)赤塚教会礼拝説教「ゲッセマネの祈り」マルコによる福音書14章32~42節

聖書―マルコによる福音書14章32~42節
(はじめに)
 毎週の祈祷会は私にとっては大きな励ましです。一緒に祈ってくださる人たちがいる。そのことを感じて、励ましを受け、これからもイエスさまをお伝えする働きに励んでいこう、という思いへと導かれていきます。今日お読みしました聖書には、イエスさまが弟子たちと祈られた場面が書かれていました。イエスさまの祈りというと、福音書の多くの場面では、イエスさまが一人で祈られた、ということが書かれているようですが、この箇所では、イエスさまが一人ではなく、弟子たちと祈られた様子が書かれています。
 イエスさまは救い主、神の子であるから、誰かと一緒に祈る、ということは必要なかったのではないか?と思われる方があるかもしれませんが、救い主、神の子であるイエスさまはこの世に人としておいでになりました。ヘブライ人への手紙の中に、人として来られたイエスさまについて書かれている言葉があります。その言葉を読んでみたいと思います(ヘブライ4章15節、2章17、18節)。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
 イエスさまは私たちと同じ人としてこの世においでになりました。それは私たちと同じ弱さを知られるためでした。先週は弟子のペトロ、また他の弟子たちが、イエスさまが捕らえられ、十字架におかかりになる時には、イエスさまに従い得なかったことが予告されている聖書の言葉を読みましたが、ただいまお読みしました聖書に「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく」とありましたように、弟子たちの弱さをよく知っておられた方であったのです。そういうイエスさまご自身が、間もなく捕らえられ、十字架におかかりになる時、私と一緒に祈ってほしい、私のために祈ってほしい、と弟子たちと祈りを共にされたのです。

(聖書から)
 32節からお読みします。
14:32 一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。14:33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、14:34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
 今日の箇所はゲツセマネの祈りと言われる聖書箇所です。イエスさまと弟子たちがオリーブ山のゲツセマネの園と言われるところで祈った場面です。ゲツセマネというのは、油しぼりの用具の名前だそうです。オリーブ山という名前が付けられているように、この山はオリーブの木が生い茂っていて、オリーブの油しぼりが行われていたのでしょうか。そこに弟子たち、特にここにはペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子たちの名前が書かれていますが、彼らに「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と言われました。「この座っていなさい」、「目を覚ましていなさい」というのは、祈りを意味しているようです。弟子たちに、あなたがたもここで祈っていなさい、と言われたのです。
 この時のイエスさまの様子ですが、「ひどく恐れてもだえ始め」とあります。また弟子たちに向かっては「死ぬばかりに悲しい」と言われました。この恐れ、悲しみというのは、何でしょうか?この後には、イエスさまの祈りの言葉があります。
14:35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、14:36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」とイエスさまは祈られた、ということです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」。アッバというのは、父親に対して、親しみを込めて呼ぶ言い方です。お父さん!とか、パパ!ということです。神さまのことを「父よ」と呼ぶのは、当時のユダヤ教でもあったようですが、お父さん、パパ、という大変近しい関係で呼ぶのは、イエスさまが初めてだと言われます。このようにして、イエスさまから、私たちは神さまという方をもっと身近な方、親しい方とするように教えられます。
 イエスさまが祈られた「この苦しみの時」、「この杯」というのは、イエスさまが間もなく捕らえられ、十字架におかかりになることを示していると思います。私たちは、イエスさまが私たちを罪から救うために十字架にかかってくださった、ということを信じていますが、イエスさまはそのためにどんなに苦しまれたのか、この祈りからおぼえたいと思います。
私が子供の時に、主の晩餐式を受けた後、あるご婦人が主の晩餐式の片付けをしながら、私に話しかけてきたのを思い出します。「私は主の晩餐式のパンと杯をいただく度に、この私のためにイエスさまが十字架にかかり、血を流され、苦しまれたことを思い起こして、本当にありがたいと思っていますよ」と言われたのです。私は正直なところ、まだその時には、イエスさまの十字架の意味が分かっていませんでしたから、なぜ、この人は思い詰めたような顔をして、そんなことを言うのだろうか?と思っていましたが、今になって考えますと、その方は主の晩餐式を受ける度に、イエスさまの十字架の救いをしっかりと心に受け止めておられたのだな、と思いました。この私のために苦しまれたイエスさま。そのことによって、今、私は生かされている。私たちは感謝して受け止めたいと思います。
 イエスさまは弟子たちに再び語られます。
14:37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。14:38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
 イエスさまは弟子たちに三度目の祈りのリクエストをされました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。この「心は燃えても、肉体は弱い」というのは、どういう意味でしょうか?私たちはいろいろなことを決心したりしますが、くじけてしまうことがあります。決心という言葉は文字通り、心で決めるということです。私たちは自分の心で決めるのです。年が明けると、新年の抱負ということで、今年はこのことをやり遂げよう、と決心します。でも、続かないことがあります。イエスさまの弟子たちも、私たちは決してイエスさまを知らないなどとは言いません!死ぬまで、主に従います!と決心して歩んできたことでしょう。私たちもバプテスマを受ける時には、そういう決心をします。しかし、どうでしょうか?「心は燃えても、肉体は弱い」。そういう私たちです、弱い私たちです。
 イエスさまは、弟子たちに、あなたがたには、祈ってほしい、と言っていたのに、なぜ、眠ってしまったのか?あなたがたは弱くてダメだ!そうおっしゃったでしょうか?いいえ、イエスさまは「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」と言われました。弟子たちが弱いことを主はよくご存じでした。だから、こうおっしゃったのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。私たちは弱い。だからこそ、祈るのだ、と言われるのです。
 祈る人というと、信仰深い人、強い人と考える方があるかもしれません。でもその反対です。神さまに祈らなければやっていけないことを知るから祈るのです。自分だけではやっていけない。神さまに助けてもらわなければどうにもならない。そのことを知るから祈るのです。祈らざるを得ないのです。

(むすび)
繰り返しますが、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。これはどういう意味かというと、私たちは弱い。だからこそ、神さまに助けてもらわなければ、やっていけない。神さま、どうか、弱いこの私を助けてください!イエスさまはそのように祈りなさい、と言われたのです。ペトロも、他の弟子たちも、まだこの時点では、自分で何とかやっていける。私たちは主を知らないなどとは言わない。そう思っていたでしょう。しかし、この後、自分の弱さに気づかされることになる弟子たちに、主はこの時、既に大事なことを語っておられたのです。神さまを信頼しなさい。神さまに助けを求めなさい。それが祈りです。
 イエスさまは十字架におかかりになる直前、父なる神さまに必死で祈られました。十字架にかかるという恐れ、苦しみ。主は弟子たちにそういう自分を支えてほしいと一緒に祈ったのでした。そして、弟子たちに言われました。あなたがたも神さまを信頼し、神さまに助けを求めて祈りなさい。あなたがたが苦しみ、悲しむその時も、神さまがあなたがたを支えてくださるから。私たちも共に祈っていきましょう。

祈り
恵み深い主なる神さま
 主は十字架におかかりになる直前、弟子たちと共にゲツセマネで祈られました。人として来られた主はやがて訪れる苦難を受け止めきれず、弟子たちに共に祈ってくれるように願いました。
 主は「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈られました。私たちもみ心に適うことが行われますように、と願える時、祈れる時までには、心に多くの戦いがあるかもしれません。
 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。主は弟子たちにこのように語られましたが、これは主ご自身が体験したことでした。
 私たちは主の助けを信じてこれからも祈ります。どうか、弱い私たちを助け、導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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