ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 「私たちの宮清め」マタイによる福音書21章12~17節 2026年1月4日 

「私たちの宮清め」マタイによる福音書21章12~17節 2026年1月4日 

私たちの宮清め マタイによる福音書21章12~17節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
2026年、新しい年が明けました。この年も皆さんと一緒に主を礼拝することができますことを感謝します。お読みした聖書の言葉は、マタイによる福音書21章12節からです。新共同訳聖書の小見出しでは、「神殿から商人を追い出す」と付けられています。神殿、それは、神さまを礼拝するところです。古い訳(口語訳など)では、神殿と訳されている言葉が、宮となっていました。小見出しでは、神殿から商人を追い出す、となっていましたが、この聖書個所は、「宮清め」というテーマで知られている個所です。説教題は、「私たちの宮清め」としました。

(聖書から)
 12節をお読みします。
21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
 驚くような様子が書かれています。イエスさまが神殿の境内に入られ、そこで売り買いしていた人たちを追い出した。両替人の台や鳩を売る腰掛けを倒された、とあります。いったい、イエスさまはどうしてこのようなことをなさったのでしょうか?その理由が、次の13節に書かれています。
21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
 イエスさまの言われた言葉がここに書かれています。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」。二重かぎ括弧しているところは、聖書の言葉、旧約聖書のイザヤ書56章7節の言葉の引用です。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。
 神殿、神さまの宮。そこは神さまを礼拝するところと言いました。神さまを礼拝し、神さまに祈るところです。そのように言いますと、今、私たちが集まっているところ、教会も同じです。教会は神さまを礼拝するところ、神さまに祈りをささげるところです。私たちが毎週日曜日に何のために教会に集まって来るのかというと、神さまを礼拝するためです。もしも、そのことを忘れた時、それとは別の目的になっていく時、教会が教会ではなくなってしまいます。
 イエスさまは、イザヤの言葉を引用され、このように言われました。「ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている」。祈りの家であるべきが、そうではなくなっている。あなたがたは、祈りの家を、強盗の巣にしてしまっている。
強盗の巣とは何でしょうか?強盗というと、盗む、奪い取る・・・、といったイメージがあります。自分の欲望のために、他人のものを無理やり、強引に奪おうとする。年末にある方の書かれたものを読んで、考えさせられました。愛、愛するということについてです。私たちは、自分の愛する人に対して、どのような愛で愛しているでしょうか?もしも、その愛というのが、自分の欲望を満たすためだけのものならば、それは愛と言えるでしょうか?自分の欲望のため、自分の利益のためというなら、愛と言っても、奪う愛、奪い取る愛ということになるでしょう。けれども、聖書が私たちに教える愛は、そういう愛ではありません。自分の欲望、満足、利益のためではなく、他者のための愛です。奪う愛ではなく、与える愛、ささげる愛です。
 イエスさまは、祈りの家を強盗の巣にしてしまっていると言われました。神さまを礼拝するために、人々は神殿に集まって来ました。しかし、イエスさまは、その人たちの心を知られたのです。神さまを愛する心、人を愛する心、それとはかけ離れている心を知られたのです。
 14節には、このようなことが書かれていました。
21:14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。
 神殿の境内には、目の見えない人、足の不自由な人たちがいました。この人たちも神さまを礼拝したいという思いで神殿にやって来たのです。神殿の境内の庭には、ユダヤ人ではない人たち、異邦人、またしょうがいを持った人たちが出入りすることができました。しかし、神殿の中に入ることは許されませんでした。神殿の中に入ることを許されなかった人たちは、境内の庭で神さまを礼拝したのです。ところが、その場所では、神殿の中に入ることができる人たちが献げ物をするために必要な動物の犠牲の献げ物の売買や両替が行われていたのです。神殿の中に入ることを許されず、境内の庭で礼拝していた人たちのその礼拝の場を彼らは奪い取っていたのです。
 私たちの教会はどうでしょうか?ここまでは特別な人たちの場所、ここから後は特別でない人たちの場所という仕切も、区別もありません。皆さん自由に、思い思いの場所に座って、神さまを礼拝しています。けれども、主がご覧になった神殿の様子は、そういうものではありませんでした。貧しい人たち、弱さを抱えている人たちを神殿の中に入れることをしないで、自分たちこそは神さまから選ばれた特別な民と考え、礼拝したつもりになっている。その様子を見て、あなたがたは祈りの家を強盗の巣にしてしまっている、と言われたのです。
 そういう主のもとに、「目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来た」とあります。この場面というのは、主が怒りを表しているところです。怖くて近寄れないような様子だったと思います。しかし、目の見えない人や足の不自由な人たちには、主の心が見えていた、主の思いが分かっていたのではないでしょうか。彼らは主のそばに寄って来たのです。そして、そばに寄って来た彼らを主は癒されました。
 一方、この様子を見て、今度は宗教指導者たちが腹を立てます。
21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
 彼らは何に腹を立てたのでしょうか?イエスさまは、目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されました。ところが、それを見て腹を立てたのです。それだけではありません。境内で子供たちが「ダビデの子にホサナ」と言いました。そのことにも腹を立てたのです。彼らは、自分たちの目の前で、イエスさまがなさった癒しを、不思議な業を見たのです。子供たちがイエスさまを賛美した声を聞いたのです。そのことに腹を立てているとは、どういうことなのでしょうか?
 私たちが福音宣教に励んでいこうとする時、必ず、それに対する妨げが起こってきます。私たちがイエスさまの福音に生かされている喜びから、福音を伝えようとすると、福音をまだ知らない人たちは反対することがあるのです。私たちが、自分の家族や友人に福音を伝えても、嫌な顔をされたり、拒絶されたりすることがあるのです。すると、私たちは、「自分の伝え方が悪いのだろうか?自分の生活が証しになっていないからだろうか?」と過度に悩んだり、落ち込んだりしてしまうことがあるかもしれません。けれども、そのことで、あまり自分を責めたりしないで、神さまにお委ねしていきたいと思うのです。神さまの時、救いの時を信じて祈っていきたいと思うのです。聖霊の働きによって、主に出会う時が来ることを信じて祈っていきたいと思うのです。
祭司長たち、律法学者たちは、イエスさまが病にある人を癒しても、子供たちが賛美しても、それを喜ばず、腹を立てました。なぜでしょうか?彼らは、イエスさまが救い主であることを受け入れていませんでした、信じてはいませんでした。それでイエスさまの語ること、行なうこと、そのすべてが神を冒涜することだ、と考えていたのです。
 祭司長たち、律法学者たちは、イエスさまにこのように言いました。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか」。これは、あなたのせいで、子供たちが神さまを冒涜している、ということを言っているのです。それに対して、主はこのように答えられました。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか」。この二重かぎ括弧の言葉は、旧約聖書・詩編8編3節の引用です。イエスさまは、聖書の言葉を根拠にして、彼らに語りました。
 「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」。この言葉に出てくる「あなた」というのは、神さまのことです。神さまが、幼子や乳飲み子の口に賛美を歌わせたのです。今日の聖書の個所には、神殿の中に入ることが許されなかった人たちのことが出ていました。異邦人やしょうがいを持つ人たち。そして、子供たちです。しかし、神さまは、その子供たちの口に賛美を歌わせた、神さまを賛美させた、というのです。これは神さまに対する冒涜ではありません。神さまが子供たちの心に臨んでくださり、賛美させたのです。神さまのみわざ、働きによることなのです。

(むすび)
 最初にもお話ししたように、今日の説教題を「私たちの宮清め」としました。宮、神殿というと、聖書の中に、このような言葉があります(一コリント3章16、17節)。
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
 ここに書かれているように、私たちは、神さまの神殿です。なぜ、そう言えるのかというと、神さまの霊が、聖霊が私たちの内に住んでいるからです。イエスさまが私たちの内におられるのです。そういう私たちがするべき務めがあります。それは、宮清めです。自分自身を清めることです。皆さんは、この年末、新年に備えて、大掃除などで忙しく過ごされたことと思いますが、私たちの内側の方はどうでしょうか?私たちの宮清め、神殿の掃除はどうでしょうか?イエスさまは、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」という聖書の言葉を引用されました。私たちの宮清め、神殿の掃除、それは、神さまに祈ること、神さまを礼拝することではないでしょうか。私たちは自分で自分を清めることはできません。主によって清めていただくのです。そのために私たちは主のもとに行くのです。主によって日々、新しく生きる者にしていただきましょう。新年の最初の主の日に一緒に神さまを礼拝することができて、感謝です。神さまを礼拝するところから、神さまに祈るところから、すべてを始めてまいりましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
新しい年を迎えました。宮清め、神殿掃除の聖書個所を読みました。主は、私たちの宮、神殿を清めてくださいます。私たちの宮、神殿が強盗の巣ではなく、祈りの家でありますように。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」とあるように、神さまが私たちの口をとらえてくださり、心をとらえてくださり、この新しい年も、神さまを賛美しながら歩む者とさせてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧
カテゴリー
アーカイブ
月を選択