「アブラムは主を信じた」創世記15章1~21節 2026年2月22日
(はじめに)
アブラム、この人は後にアブラハムという名前に変わりますが、信仰の父と言われた人物です。創世記12章をご覧になりますと、アブラムが神さまからの召命、召命というのは、神さまからの使命ということですが、召命を受けて、行き先を知らないで、神さまの言われるとおり、旅立っていきます。12章4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。そういうアブラムに再び、神さまが語りかける場面が今日の箇所です。
(聖書から)
1節に「これらのことの後で」とあります。それは、先月お読みした創世記14章に書かれていることです。考えてみますと、私たちも一日の終わりの時に、それぞれの一日の「これらのこと」を振り返ることがあるのではないでしょうか。今日は、いろいろなことがあったなあ。大変だった。あるいは、嬉しかった。その日のことを神さまに感謝したり、悔い改めたり、そのようにして、日々を過ごすことは大事なことです。新しい一日に向かっての大切なひと時です。
さて、聖書に戻りますが、神さまの言葉が幻の中でアブラムに臨んだ、ということから、今日の箇所は始まります。その神さまの言葉というのは、このようなものでした。
15:1 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」
恐れるな、という言葉から始まっています。考えてみますと、私たちは何らかの恐れを持ちながら生きています。健康の不安、恐れがあります。生活、経済的なことの不安、恐れ、家族のことで不安、恐れがあります。アブラムもいろいろな不安、恐れを抱きながら生きていた人だと思います。そういうアブラムに対して、そして、この聖書の言葉を読む私たちに対して、神さまは恐れるな、と言っておられます。神さまはこのようにも言われます。「わたしはあなたの盾である」。盾というのは、戦いの道具です。敵の攻撃から身を守るための道具です。神さまご自身がそういうものとなってくださるというのです。つまり、私たちの代わりに神さまが戦ってくださるということです。私たちのことを神さまが守ってくださるということです。
さらに神さまは、アブラムにこう言われました。「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。私はあなたの盾、あなたの受ける報いは非常に大きい、と言われて、アブラムはとても嬉しかった、大きな励ましを受けた、と思います。ところが、次の言葉からは、アブラムにとって、それは喜びでも、励ましでもなかったことが分かります。2、3節をお読みします。
15:2 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」15:3 アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
ここでアブラムは神さまにこのように言っています。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか」。これは、神さま、あなたは私の受ける報いは非常に大きいと言われますが、いったい私に何をくださるというのですか、ということです。なぜ、アブラムはこのようなことを言ったのでしょう。後半の言葉を読んでみますと、「わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。さらに続いて、「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」と言っています。
神さまはアブラムに語りかけ、アブラムは神さまの言葉に従って旅立ちました。創世記12章をご覧くださいますと、神さまはアブラムを祝福すると言われ、その子孫に神さまが示す土地を与えるとも言われました。ところが、現実はどうでしょうか?私には子供がありません。私には子孫を与えてくださいません。それなのに、あなたの受ける報いは非常に大きいなど、いったいどういうことでしょうか?そういうことを言っているように思えます。
子供がいないため、私の家督を継ぐのは、僕のダマスコのエリエゼルだということを言っています。アブラムはこのようなことを語ることによって、神さまに対して、何かを尋ねている、何かを訴えているように思えます。アブラムは後には信仰の父と言われるようになる人です。しかし、この時、アブラムは、神さまの言葉が信じられなくなっていたのかもしれません。
私たちは、このような聖書の記事を読むと、なんだ、アブラムも神さまを信じられないようなことがあったのか、と思うかもしれません。けれども、それと同時に、アブラムにも私たちと同じような苦しみ、悩みがあったのだ、とこの時のアブラムに共感するのではないでしょうか?私たちも、神さまを信じられない、見失うことがあります。神さまは私を愛しておられる。私を良きように導いてくださる。聖書にはそう書いてあるし、そう信じたいけれども、実際はどうだろうか?苦労の連続ではないか。大変なことが次から次へと起こる。それでも神さまは愛なのか、私を良きように導いてくださるのか?私たちもこの時のアブラムの気持ちが分かるような気がするのではないでしょうか。そういうアブラムに対して、神さまはどうされたのでしょうか?4節を読んでみます。
15:4 見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」
神さまが言われたのは、あなたの家の僕であるエリエゼルがあなたの跡を継ぐのではない。あなたから生まれる者があなたの跡を継ぐ、ということです。そして、神さまはアブラムを外に連れ出します。今度は5節をお読みします。
15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
神さまは、アブラムを外に連れ出してこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。天を仰ぐ。夜空を眺める。私たちは日々忙しく生活していますから、なかなかそういうことはしないかもしれません。そんな暇があったら、もっとするべきことがあるだろう。そう考えるかもしれません。私たちは、目の前のこと、目先のことで頭がいっぱいです。そういう私たちにとっては、天を仰いで星を数えるなんて、と思ってしまうかもしれません。
でも、神さまは、アブラムに天を仰いで星を数えてみなさい、と言われました。今、あなたが囚われている、縛られている、そのことから目を離してみなさい。そして、天を仰いで星を数えてみなさい。それは神さまの創造のわざに目を向けてみなさい。あなたの見ているところを変えてみなさい。あなたの視点を別のところに移してみなさい。そういうことが言われているように思えます。
星を数えるということですが、実際に星を数えてみようとしたら、それは数えきれないものです。神さまはこのように言われました。「あなたの子孫はこのようになる」。つまりそれは、あなたの子孫は数えきれないほど、与えられるということでしょうか?いずれにせよ、神さまがこれらのことを通して語られたのは、神さまの創造のわざを見なさい、神さまのなさること、それはあなたがた人間の考えや思いをはるかに超えたこと、その神さまのみわざを信じてみなさい、と言われたのではないかと思うのです。
アブラムはこれを聞いてどうしたでしょうか。6節をお読みします。
15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
「アブラムは主を信じた」とあります。このことについて、ある方は、原語に即していうならば、アブラムは主を信じさせられた、ということだ、と言っています。信じさせられた、というのです。考えてみると、信仰というのは、私たち自身から起こることではなく、神さまが与えてくださるものです。自分で信じるという前に、神さまからの働きかけがあって、そこで私たちは、神さまによって、信じさせられるのです。皆さんもそうではないでしょうか?今になって振り返ってみると、自分が神さまを信じているというのは、不思議なことだ。神さまなんて信じることはないと思っていた自分が、なぜ、神さまを信じているのだろう?そう思うことはないでしょうか。
神さまは、信じられなくなったアブラムに対して、神さま自ら語りかけてくださったのです。そして、今は信じられないかもしれないが、私を信じてみないか?とアブラムと向き合ってくださり、語り合ったのではないでしょうか。そのような語り合いを通して、アブラムは主を信じてみようと思った、主を信じることに賭けてみようと思ったのです。ですから、「アブラムは主を信じた」というのは、アブラムがまったく何の疑いもなく素直に信じた、ということではないと思うのです。心には、いろいろな思いはありました。けれども、神さまとの対話、やり取りの中で、このお方に自分を賭けてみよう。このお方に自分の人生をささげてみよう。それが、「アブラムは主を信じた」ということではないかと思うのです。
「主はそれを彼の義と認められた」とあります。神さまはアブラムの信仰を義と認められた、とあります。信じられなかったアブラムでした。しかし、神さまに自分を賭けていこう、ささげていこうと決心したのです。ここに、義という言葉が使われています。新約聖書では、義ということについて、神さまとの正しい関係ということで説明されますが、ここでも、アブラムは神さまを信じた。神さまはそれを義と認められた、というのは、アブラムは、神さまとの関係に生きる者となった。神さまにしっかりとつながった、ということです。もう一度、言います。アブラムは主を信じた。それは、神さまの方から歩み寄ってくださり、神さまとの対話、やり取りの中で、アブラムは、神さまを信じてみよう、神さまにつながって生きていこうと決心したのです。そして、今、神さまは、ご自分の方から私たちに歩み寄っておられることをおぼえていたいと思うのです。
(むすび)
8節には、神さまの約束の証明は何によって分かるのかとアブラムが神さまに尋ねる場面があります。その言葉を読んでみます。
15:8 アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」
神さまはそれに対して、動物による約束、契約の儀式を通して、お答えになりました。これは神さまの約束はただ言葉だけではない、口先だけではないということです。10節に、動物を「真っ二つに切り裂き」とありますが、これはどういうことかというと、神さまは、もしもご自分の約束が実現しなければ、このようにご自分を切り裂くことを示された、というのです。
エレミヤ書34章18~20節にこういう言葉があります。
34:18 わたしの契約を破り、わたしの前で自ら結んだ契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際して真っ二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。34:19 ユダとエルサレムの貴族、役人、祭司、および国の民のすべてが二つに切り裂いた子牛の間を通った。34:20 わたしは、彼らを敵の手に渡し、命を奪おうとする者の手に渡す。彼らの死体は、空の鳥と地の獣の餌食になる。
神さまが預言者エレミヤに語られた言葉です。ここで言われていることは、神さまの契約を破ることについての厳しい警告です。真っ二つに切り裂いた子牛を通して、そのことが語られています。そして、今日の個所では、神さまご自身のことで言われたのです。それは、神さまは、ご自分が言われることはそれほどに真剣な約束、必ず実現する約束として語っていることなのだ、ということです。
つまり、神さまの言葉、それは、決していい加減なもの、軽はずみなもの、言ったことを反故にするようなものではないということです。私たち一人一人に真剣に、誠実に語られている言葉なのです。アブラムは、主が自分に真剣に、本気で語っておられることを知ったのです。その神さまの真剣さ、誠実さ、そして、熱意に圧倒されて、アブラムは主を信じたのです。主に自分を賭けてみようと決心したのです。私たちは、神さまに対して、神さまの言葉に対して、真剣に、本気で向き合っているでしょうか。神さまがどれほどの思いをもって、アブラムに、そして、私たちに臨んでおられるか、出会っておられるか、そのことをおぼえて、私たちも主を信頼して歩んでいこうではありませんか。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
今日の聖書個所に、「アブラムは主を信じた」とありました。しかし、アブラムはこの時、主を信じられなくなっていました。厳しい現実の中、アブラムの心は揺れ動いていました。そういうアブラムに、主ご自身が歩み寄ってくださり、語りかけてくださいました。
私たちの神さまは、対話をしてくださる方です。私たちの心のすべてをご存じであり、私たちの苦しみ、疑い、それらのすべてを聴いておられ、受け止めておられ、語り合ってくださる方です。
この私に、真摯に向き合ってくださる方、そのことを知った時、アブラムは、主を信じたと思います。そして、主は、今、私たち一人一人にも真摯に向き合ってくださいます。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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