「祝宴への招き」2026年3月15日 マタイによる福音書22章1~14節
(はじめに)
先週に続いて、イエスさまのたとえ話を読みました。今日のたとえ話について、新共同訳聖書の小見出しには、「『婚宴』のたとえ」と付けられています。婚宴、結婚式のことがたとえ話で使われています。イエスさまはこのように、人々によく理解できるように、身近な話を使って、天の国のお話をされました。天の国、神の国の話です。
イエスさまは、なぜ、天の国のお話をされたのでしょうか?それは、聞いている人たちが、天の国の生き方をするように、とお話しされたのです。天の国、天国というと、私たちが、地上の生涯を終えた後に行くところと考えるかもしれません。しかし、聖書には、次のような言葉があります(ルカ17章20、21節)。
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
「神の国はあなたがたの間にある」とイエスさまは言われました。イエスさまを信じた人は、神さまの言葉を聞いて、神さまの求められる生き方をするのです。今、この地上において、神の国の住人としての生き方を表していくのです。
(聖書から)
イエスさまのたとえ話から、天の国の住人はどう生きていけばよいのか、そのことを聞いていきましょう。2節からお読みします。
22:2 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。22:3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
王さまは王子のために婚宴を催しました。ところが、婚宴に招いた人たちは来ようとしなかった、ということです。王さまは、家来たちを使いに出して、再び、婚宴に招きます。
22:4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』
せっかく婚宴に招待したのに、来ようとしなかった人たちに、それでもぜひ来てほしいと繰り返し、招いたのです。すると、招かれた人たちはどうしたでしょうか。
22:5 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、22:6 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
招かれた人たちのことがここに書かれています。「一人は畑に、一人は商売に出かけ」とあるのは、王子の婚宴よりももっと大事なものがあると考えて、婚宴には行かなかった、ということでしょう。それだけならまだいいのですが、こんなことも書いてあります。「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」。王子の婚宴の招待のために王さまから遣わされた家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった、というのです。何ともひどい話です。さて、王さまはどうしたでしょう。
22:7 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。22:8 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。22:9 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』
家来たちを殺された王さまは大変怒り、そういうことをした人たちを滅ぼし、その町を焼き払った、ということです。そして、家来たちにこう言いました。「婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」。
王さまは、再び、婚宴の招きをしています。ここでは、「見かけた者はだれでも」とあります。王子の婚宴に誰でも招かれているということです。家来たちは、王さまの言うとおりにしました。
22:10 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
ここに「見かけた人は善人も悪人も皆集めて来た」とあります。先ほどの「だれでも」というのが、ここではもっと具体的に「善人も悪人も」とあります。
このたとえ話は、「『婚宴』のたとえ」と言われます。ここまで読んできて、それぞれこの話の中に出てきた人たちというのは誰のことであるのか考えてみましょう。まず、王さまですが、これは神さまのことです。王子とは、神さまの息子ですから、イエスさまのことでしょう。そして、家来たちというのは、神さまの僕、神さまから遣わされた人たちです。
招かれた人たちとは、誰のことでしょう。このたとえ話は、先週の礼拝の話の続きです。先週お読みしたたとえ話については、イエスさまは、ユダヤの宗教指導者たちに向けて語られた、とお話ししました。今日お読みしたたとえ話も同じことだと思います。すると、招かれたけれども、その招きに応えなかった人たちというのは、ユダヤの宗教指導者たちのことではないでしょうか。彼らは、神さまのみ子イエスさまを受け入れませんでした。
しかし、神さまは、婚宴、イエスさまがおいでになったことをお祝いするパーティーに今度は、誰でも来るように、と招かれたのです。誰でも、善人でも悪人でも来るように、と招かれたのです。
このたとえ話を聞いていたユダヤの宗教指導者たちは何とおかしな話だと思ったかもしれません。善人ならまだしも、悪人も招いた、というのです。もしかすると、私たちも同じことを考えるかもしれません。神さまは善い人を招かれる。悪い人を招くはずはない・・・。だから、私も悪い人ではなく、善い人になるように努力しなければ、と。
ある人が、ある聖書の言葉を読んで、とても印象に残ったと言いました。それは、どういう言葉かというと、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(マタイ5章45節)という言葉でした。この言葉を読んだ時、父、つまり、神さまという方は、善人だけ、正しい者だけでなく、悪人も、正しくない者にも変わることなく、太陽を昇らせ、雨を降らせる、とはどういうことだろう?と不思議に思ったけれど、後になって考えてみると、自分が思い上がっていたことが分かった、というのです。それはどういうことかというと、私は、自分は善人、自分は正しい者。でも、あの人は、この人は悪人だ、正しくない者だ、と思い込んで生きてきた。でも、自分の中にも悪の心がある。自分も正しくないことをしてしまうことがある。そのことに気づいたら、この言葉は、自分にとって、ありがたい言葉だと思えるようになった、というのです。
今日のたとえ話の「善人も悪人も」ということについて、私たちは、自分はどちらの方だと考えているでしょうか?自分は正義感も強く、それなりに正しく生きてきた・・・。そういう自信のある方は、自分は善人だと思っているかもしれません。しかし、自分の心の中には、あるいはお腹の中には、何かどす黒いものがある。そのことに気づいている人は、「善人も悪人も」と聞くと、こんな私も神さまに招かれているのだ、これはありがたい言葉だということが分かるのではないでしょうか。
(むすび)
たとえ話の後半をお読みします。
22:11 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。22:12 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、22:13 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』22:14 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
婚礼の時、それにふさわしい服装が必要だということです。礼服を着ていない人がいたというのです。こういう話を聞いて、少し引っ掛かりをおぼえる方があるかもしれません。礼服を用意するなんて、大変だ。誰もが招かれているということですが、礼服を用意することができない人の場合はどうなるのだろう?そういう疑問をお持ちになる方があるかもしれません。しかし、当時、このユダヤにおいては、婚宴、婚礼の招待の時には、招待する側が、礼服を用意していたそうです。ですから、自前で用意しなくてもよかったのです。その場に行って、そこに用意されている礼服を着ればよかったのです。
この礼服は何を意味しているのでしょうか。礼服とは、イエスさまのことだと言われます。イエスさまを着る。それが神さまの招きにふさわしいことなのだというのです。しかも招く側で礼服は用意されている。だから、招かれた者は、ただイエスさまという服を着ればよいのです。聖書の中に、イエスさまを着る、ということが書かれている箇所があります。その言葉を読んでみます(ローマ13章13、14節、ガラテヤ3章26、27節)。
13:13 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、13:14 主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。3:27 洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
キリストを身にまとう。キリストを着る。それはイエスさまを信じるということです。悪い人から良い人になろう。正しくない人から正しい人になろう、と努力しなければと考える人がいると思います。その考えは良いことです。でも自分の努力で良い人、正しい人になることはできないのです。そういう私たちに、聖書が教えていることは、イエスさまを着ること、イエスさまを信じることです。そこから、新しい歩みが始まるのです。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
イエスさまのたとえ話を読みました。王子の婚宴、それはイエスさまの招きのことです。イエスさまは、誰でも招いておられるお方、善人も悪人も招いておられるお方です。
私たちは人間の基準で、人を善人であるとか悪人であると判断します。しかし、神さまの前に立つ時、誰が自分のことを善人と言えるでしょうか?「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3章10節)と聖書は語ります。すべての人は罪人です。
しかし、そういう私たちを主は招いてくださいました。私たちがすること、それは礼服を着ることです。イエスさまを着ること、イエスさまを信じることです。そこから新しい生き方が始まります。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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