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イースター礼拝「あの方はここにはおられない」ルカによる福音書24章1~12節 2026年4月5日 

あの方はここにはおられない ルカによる福音書24章1~12節 2026/ 4/ 5 赤塚バプテスト教会(朝・夕)イースター礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 イースター、おめでとうございます。イエス・キリストは、私たちを罪から救うために十字架にかかり、死なれましたが、三日目に復活されました。主が復活された。それは、主が罪と死に勝利されたことを意味します。それでは、イエス・キリストの復活について書かれている聖書の記事から聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 この礼拝では、ルカによる福音書の復活の記事をお読みしました。24章1節をお読みします。
24:1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
 「週の初めの日の明け方早く」というのは、日曜日の早朝のことです。その時の出来事がここに書かれています。ここには、「準備しておいた香料を持って墓に行った」とありますが、誰が香料を持って墓に行ったのかというと、お読みした個所のすぐ前の23章56節に、このようなことが書かれていました。
23:56 婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。
 先週は、23章56節の前半まで読みましたが、後半には、このようなことが書かれていました。「婦人たち」というのは、誰のことかというと、24章10節には、「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」とありますので、この人たちのことだと思います。
 安息日というのは、金曜日の日没から、土曜日の日没までの期間です。「掟に従って休んだ」とありますように、ユダヤの人たちは、安息日は、掟、神さまの律法に従って、休みました。新共同訳聖書の用語解説というところには、簡単な解説があります。そこには、安息日について、このように書かれています。「神を敬うために聖別された休息の日と定められていた(出エジプト記20章8~11節)」。
 安息日が終わり、次の朝早く、つまり、日曜日の早朝に、イエスさまを愛し、慕っていた女性たち。この人たちについては、イエスさまの女性弟子と言ってもいいでしょう、その人たちが、イエスさまの葬られている墓へと向かいました。2節からは、女性たちが墓に到着した時のことが書かれています。
24:2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、24:3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
 今朝の教会学校に出席された方は、マルコによる福音書から、イエスさまの復活の記事を学ばれたと思います。イエスさまの納められている墓の入り口には、非常に大きな石があったために、墓の中に入ることができないと考え、女性たちが困惑していたことが書かれていました。ところが、その石は墓のわきに転がしてあった、というのです。不思議なことが起こったことが示されていますが、彼女たちは、幸いにも墓の中に入ることができました。けれども、墓の中に入ってみると、イエスさまの遺体は見当たらなかった、というのです。
 4節以下をお読みします。
24:4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。24:5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。24:6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。24:7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
 イエスさまの遺体が見当たらない!そのために女性たちは、途方に暮れてしまった、というのです。すると、そこに「輝く衣を着た二人の人」が、彼女たちのそばに現れた、ということです。マルコによる福音書には、「白い長い衣を着た若者」(マルコ16章5節)となっていました。少し違っていますが、不思議な存在が現れたことがどちらの福音書にも書かれています。ちなみに、マタイによる福音書、ヨハネによる福音書では、「天使」(マタイ28章2節、ヨハネ20章12節)と書かれています。マルコによる福音書、ルカによる福音書の方が、古い記事なのかもしれません。そこにいたのが誰であるか、まだはっきりと分からないまま、書かれたのかもしれません。それが、少し時が経った後に、あれは、神さまの天使だったのだ、と理解されたのかもしれません。
 二人の人は、途方に暮れている女性たちに、このように言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
 イエスさまは十字架にかかり、死んでしまったはずです。それなのに、二人はこんなことを言っています。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。死んだはずのイエスさまのことを「生きておられる方」と言っているのです。そして、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」と言いました。ここで話が終わるなら、いったいこの人たちは何を言っているのだろうか?そう思うほかありませんが、この後に、二人はこのようなことを言っています。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。
 「思い出しなさい」と言っています。イエスさまが、以前、お話しなさったことを思い出すように、というのです。それはどんな話だったかというと、「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」ということでした。
 今日はルカによる福音書を読んでいますので、この福音書の中から探してみますと、ルカによる福音書9章22節にこのようなことが書かれていました。
9:22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
 確かにイエスさまは、ご自分の弟子たちに、ご自分が十字架にかかること、復活することを語っておられました。この言葉は、そこにいた女性たち、女性の弟子たちも聞いていたようです。8節には、女性たちについて、このように書かれています。
24:8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
 「イエスの言葉を思い出した」。イエスさまの語られた言葉を思い出した、というのです。イエスさまの言葉を思い出す。イエスさまを信じる私たちにとっても、このことはとても大事なことです。イエスさまの言葉を思い出す。聖書の言葉を思い出す。しかし、これを忘れている時、私たちも、この女性たちのように、途方に暮れてしまうのです。厳しい現実の中で、途方に暮れてしまう、立ち尽くしてしまうのです。
 女性たちは、イエスさまの言葉を思い出しました。そして、どうしたかというと、弟子たちに知らせに行きました。イエスさまの言葉を思い出したら、その言葉が、その人を動かすのです。言葉が人を生かすといってもいいでしょう。神さまの言葉、それは、人を生かす言葉です。聖書は、命の言葉と言われます。
24:9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。24:10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、24:11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
 彼女たちは、まだイエスさまが復活するという話を思い出しただけで、実際に復活されたイエスさまにも会っていません。でも、イエスさまの言葉を思い出して、その言葉に励まされて、促されて、弟子たちに、主が以前、語られたこと、十字架と復活について一部始終知らせたというのです。
 マルコによる福音書では、女性たちが、墓の中にいた若者から、復活について聞いたのに、伝えることができなかったことが書かれていました。ルカによる福音書では、彼女たちが弟子たちに、主の復活を伝えに行ったことが書いてありました。このルカによる福音書では、弟子たちについて、「十一人とほかの人皆」とあり、また、「使徒たち」とも書かれています。使徒というのは、福音書においては、イエスさまの最も身近にいた弟子たち、十二弟子のことを指します。彼らは、彼女たちから確かに、主の復活を聞きました。ところが、このように書かれています。「婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」。
 口語訳聖書では、「ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」となっていました。「この話がたわ言のように思われた」。「それが愚かな話のように思われて」。復活について、たわ言、愚かな話と思ったというのです。せっかく女性たちが伝えてくれたのに、イエスさまご自身が以前、お話しされていたことだったのに、使徒たちは信じなかったのです。

(むすび)
今日お読みした最後の12節です。
24:12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
 イエスさまが復活されたことを聞いても信じなかった使徒たち。しかし、そこで話は終わっていません。十二弟子の一人、ペトロが立ち上がって墓へ走っていたことが書かれていました。ペトロは主の復活を信じたのでしょうか?それは分かりませんが、信じたいという気持ちはあったのかもしれません。彼は、イエスさまの遺体が納められていた墓へ走って行きました。
 今日お読みした聖書の記事が私たちに教えていることは何でしょうか。それは、私たちには、復活は信じられないということではないでしょうか。それではどうしたらいいのでしょうか。ルカによる福音書24章13節以下、そこには、復活されたイエスさまご自身が、弟子たちに現れたことが書かれています。「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)。「イエス御自身が彼らの真ん中に立ち」(36節)とあります。信じられない弟子たちに、イエスさまが自ら会いに来てくださった、ということが書かれています。主が復活されたことを私たちは自分の知恵や力で信じることはできないのです。しかし、そういう私たちにも主が会いに来てくださる。私たちはそのことを信じていきたいと思うのです。
 一つの聖書の言葉をお読みして終わります(一ペトロ1章8、9節)。
1:8 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。1:9 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。
 「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」とあります。主が、私たちに出会ってくださり、私たちに信仰を与えてくださり、主を愛する者にしてくださり、喜びに満ち溢れる者にしてくださる。その恵みが私たちにも与えられることを信じていきたいと思います。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
主が復活されたことを聖書の言葉から聞きました。墓には主はおられなかった。主が以前、弟子たちに十字架と復活を語ってくださった。そのことを思い出しても、聞いても、弟子たちは信じられませんでした。しかし、そういう弟子たちのところに、主ご自身がおいでになりました。私たちも自分では信じることができない者です。どうか、私たちに主との出会いが導かれ、この方を主と信じることができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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