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「神の民として生きる」ペトロの手紙一2章1~10節 2026年7月19日

神の民として生きる ペトロの手紙Ⅰ 2章1~10節 2026/ 7/19 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」(1節)。このような言葉から、ペトロの手紙一2章は始まります。「だから」とあるのは、その前に書かれていることを受けて語られたということです。今日お読みした2章の前、つまり、1章に書かれていることは、どういうことだったかというと、1章23節以下には、このようなことが語られていました。
1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。1:24 こう言われているからです。
「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
 ここに語られていることは、一言で言うなら、あなたがたは、神さまの生きた言葉によって新たに生まれた、ということです。私たちは、新たに生まれた者。私たちは、そのことを信じているでしょうか?自分の現状を見て、自分自身はそのような者とは思えない、と考えるかもしれません。もちろん私たちは、自分で自分を新しくすることはできません。けれども、ここに書かれているように、私たちは、神さまの生きた言葉、神さまの言葉によって新たに生まれた、というのです。
 使徒パウロは、このように語っています(二コリント5章17節)。
5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
 「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。古いもの、それは、罪に支配されていた私ということです。しかし、キリストによって、神さまの言葉によって、新しいもの、罪から解放され、キリストに支配され、キリストと共に生きる私とされた、というのです。

(聖書から)
 2章1~3節には、このようなことが語られています。
2:1 だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。2:3 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。
「悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って」とあります。私たちの心の中には、悪意、偽り、偽善、妬み、悪口といったものがあるというのです。先週の礼拝では、イエスさまが言われた言葉で、外側だけでなく、内側をきれいにしなさい、という言葉がありました(マタイ23章25、26節参照)。内側というのは、私たちの心の中のことです。イエスさまは、このようなことも語られています。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7章15節)。「人の中から出て来るもの」、人の中というのは、人の心の中のことです。そこから出て来るものがその人を汚すというのです。私たちは、外側だけをきれいにするということ、形だけの信仰になっていないか、人のことは批判するけれども自分のことは省みないということはないか、気をつけなければならないと思います。「人の中から出て来るものが、人を汚す」、私たちは、自分自身の中にある罪を捨てるように、と言われているのです。
「捨て去って」という言葉に続いて、「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」とあります。私という器、その器の中の罪をまず、捨て去る。古いもの、私たちが主に従うことにおいて必要のないものは捨て去っていく。そして、その器の中に、「霊の乳」、「み言葉の乳」と訳している聖書もありますが、これは神さまの言葉のことです。その神さまの言葉を「生まれたばかりの乳飲み子のように・・・慕い求め」るのです。
私たちは、神さまの言葉を生涯、慕い求め続けるのです。なぜなら、「これを飲んで成長し、救われるようになるため」に必要なのです。成長するということがありましたが、私は自分自身を振り返ると、バプテスマを受けた時のこと、献身を決意して、神学校に行った時のこと、牧師として駆け出しの時のこと、いろいろと思い出すと、本当に自分は未熟な者であったことを思います。でもそれは過去の話ではありません。今もなお、自分は未熟な者としか言えません。もう何年も信仰生活を続けて、牧師としても何年も働きを続けてきましたが、何年経っても分かっていないことだらけ、果たして成長しているのだろうか、と思います。だからこそ、生涯、霊の乳をいただいて成長するように求めていこうとこのみ言葉から改めて決心させられました。
「救われるようになるため」とありました。ここで「救われる」とあるのは、救いの完成にあずかるという意味です。イエスさまが、再び来られる時、専門的な言葉では、再臨と言います。再臨の時、このことについては、ペトロの手紙二3章13節にはこのようなことが書かれています。「しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」。「新しい天と新しい地」とあります。それが神さまの救いのご計画が完成する時です。その日、その時を待ち望んで、今は、神さまの言葉に養われ、神さまの言葉が示すこと、神さまが私たちに求めておられることは何か、そのことを知り、そのために励んでいくのです。
3節には、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」とありました。「主が恵み深い方だということを味わ」う。どうでしょうか、私たちは、神さまの恵みを日々、味わい、それを分かち合っているでしょうか。私たちは、毎週日曜日に、神さまを礼拝するために教会に集いますが、お互いの間で、神さまの恵みを分かち合っているでしょうか。救われた喜びを分かち合っているでしょうか。
『天路歴程』という本を書いたことで知られる17世紀のイギリスの牧師でジョン・バニヤンという人がいました。最近、私は、この人の伝記をYouTubeで視聴して、とても励まされましたが、この人の回心の話というのがとても印象的でした。バニヤンの回心、それはどのようなものだったでしょうか。パウロの回心というと、パウロが復活の主に直接、出会ったというものでした。宗教改革者マルチン・ルターの回心、それは落雷の経験を通して、死を意識したというところからの回心でした。ではバニヤンの回心というのはどういうものだったかというと、パウロやルターに比べると、とても地味なものでした。
バニヤンは、行商人として働いていました。その時には、もうすでにバニヤンはクリスチャンになってはいましたが、まだはっきりとした確信はなかったようです。ある時、ある家の戸口で婦人たちが会話をしているのを聞きました。いわゆる井戸端会議というものでしょうか。彼女たちは、どのようなことを話していたかというと、聖書から受けた恵み、神さまの救いの喜びを生き生きとした表情で分かち合っていたというのです。それを聞いたバニヤンは、その会話にとても感銘を受けて、それから後、牧師、伝道者としての働きを志すようになったということです。人々が恵みを分かち合っているその姿がバニヤンの回心をもたらしたのです。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました」。私たちは神さまの恵みを知っています。神さまが恵み深い方だということを知っています。そういう私たちは、これからも神さまの恵みを味わい、分かち合っていきましょう。
4節からは、石のことが語られています。
2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、/シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」2:7 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、/「家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった」のであり、2:8 また、/「つまずきの石、/妨げの岩」なのです。彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 「主は、人々からは見捨てられた」とあります。イエスさまは、人々から見捨てられた方です。人々からは、無価値な者、不必要な存在とされたのです。その究極が十字架です。私たちはどうでしょうか。この人は価値がある。あの人には価値がない・・・。そのようにして、人のことを自分の価値基準によって選別したり、また自分自身も人から選別されたり・・・。それが世の中のあり様ではないでしょうか。
 「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25章40節)。これは、イエスさまのたとえ話の中の言葉です。イエスさまは、世において小さい者、小さくされた者との関わりを教えています。小さい者にしたことは、私にしてくれたことなのだと言われます。イエスさまご自身が、小さい者としてこの世に来られ、また小さい者と寄り添い、関わられた方であることが示されています。
 今日の聖書に戻りますと、「神にとっては選ばれた、尊い、生きた石」とあります。イエスさまは、世においては、人々から見捨てられましたが、神さまはそのお方を選ばれ、尊い、生きた石として用いられた、というのです。それは、イエスさまを信じるあなたがたも同じだと言われるのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」。「霊的な家」とは、教会のことです。あなたがた一人一人が主によって生きた石として用いられ、教会として歩んでいるのだ、というのです。

(むすび)
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。2:10 あなたがたは、/「かつては神の民ではなかったが、/今は神の民であり、/憐れみを受けなかったが、/今は憐れみを受けている」のです。 
 今日の最後の聖書の言葉をお読みしました。私たちはどういう者であるかというと、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」ということです。私たちは、神のもの、神の民とされたのです。それは、神さまの目的のためでした。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」。これが神さまの目的です。私たちは、神さまの救いを人々に伝えるために神の民とされたのです。神の民、それは教会です。教会がすることは何でしょうか。教会は神さまの救いを伝えるのです。このことのために、私たちはこれからも励んでいきましょう。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 あなたのみ子イエス・キリストは、私たちを救いへ導くためにこの世においでになりました。しかし、「主は、人々からは見捨てられた」とありました。この世において、偉い者、力ある者としてではなく、小さく、弱い者としておいでになりました。そして、この世の小さい者、弱い者と寄り添い、共に歩まれました。
 教会は、その方をかなめ石として、中心に歩む群れです。主の救いを味わい、分かち合い、伝える群れとして、私たちを用いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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