ARCHIVE

アーカイブ

  1. HOME
  2. ブログ
  3. 説教
  4. 「忠実な良い僕」マタイによる福音書25章14~30節 2026年10月11日 

「忠実な良い僕」マタイによる福音書25章14~30節 2026年10月11日 

忠実な良い僕 マタイによる福音書25章14~30節 2026/10/11 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 イエスさまのたとえ話をお読みしました。先週もお話ししましたように、マタイによる福音書25章には、三つのたとえ話が書かれています。イエスさまのたとえ話です。これらのたとえ話をイエスさまがお語りになるきっかけというのは、イエスさまの弟子たちがこのような質問をしたからでした。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(24章3節)。「そのことはいつ起こるのですか」。「そのこと」とは、神殿が崩壊するということです。イエスさまは、神殿が崩壊すると語られたのです(24章2節)。すると、弟子たちはとても不安になって、イエスさまに質問しました。けれども、いつ、神殿が崩壊するのですか?とは、質問していません。「あなたが来られて世の終わるとき」と言っています。神殿が崩壊する時というのは、終末、終わりの日であると思ったのです。
 私たちも、イエスさまの弟子たちと同じようなことを考えます。地震が起こったら、戦争が起こったら、それは世の終わりのしるしと考えて、もう世の終わりではないか?と思います。不安の中にある弟子たちに、イエスさまは、語り始めました。それが、24章、25章に書いてあることです。

(聖書から)
 今日は、マタイによる福音書25章14節から書かれているたとえ話からお話しします。14節には、このようなことが書かれていました。
25:14 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。
 イエスさまのたとえ話は「天の国はまた次のようにたとえられる」という言葉から始まります。これは先週お読みした「十人のおとめのたとえ」といわれるたとえ話も同じでした。「そこで、天の国は次のようにたとえられる」とありました。つまり、イエスさまのたとえ話というのは、天の国のたとえ話なのです。天の国について、イエスさまは語っておられるのです。
 天の国。私たちは天の国というと、私たちがこの地上の生涯を終えて、行くところと考えるかもしれません。しかし、イエスさまは、こうおっしゃっています(ルカ17章20、21節)。
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
 お読みした聖書の個所では、「神の国」となっていますが、「天の国」と同じことです。イエスさまは、天の国、神の国について、このようにお答えになりました。「神の国はあなたがたの間にある」。以前の訳では、「あなたがたのただ中にある」(口語訳)と訳されていました。日本語の多くの翻訳でも、同じように訳されています。この方が、正確な訳です。けれども、この「ただ中」ということが、心の中のことと考えられ、天の国、神の国というのは、心の中の問題に過ぎないと理解されることが多かったようです。それで、新共同訳聖書では、正しい意味が伝わるようにと、「神の国はあなたがたの間にある」と訳したようです。神の国というのは、神さまの支配、神さまがおられるところということです。神さまは、あなたがたの間におられる。神さまは、あなたがたと共におられる。それがこの言葉の意味です。
 今日の聖書の言葉に戻ります。「天の国はまた次のようにたとえられる」。イエスさまは、天の国のたとえを語られました。天の国、神の国というのは、神さまの支配、神さまがおられるところとお話ししましたが、ここでイエスさまが語られたこと、それは、神さまのお考えはこういうことです、と言われているのです。
 ある人、このたとえ話では、主人のことです。主人は旅に出るために、自分の僕たちにそれぞれ、自分の財産を預けました。三人の僕にそれぞれ、五タラントンを預け、二タラントンを預け、一タラントンを預けました。タラントンというのは、ギリシアの通貨のことで、一タラントンというのは、六千日分の労働賃金、つまり、だいたい二十年分の労働賃金に当たります。五タラントン、二タラントンに比べたら、少ないように思えますが、一タラントンでもかなりの金額であることが分かります。
 また、預ける時、「それぞれの力に応じて」(15節)と書いてあります。主人は三人の僕たちのそれぞれの力を知ったうえで、タラントンを預けました。五タラントン預かった人には、五タラントン分の責任があります。二タラントン預かった人には、二タラントン分の責任があります。一タラントン預かった人には、一タラントン分の責任があります。私は若い時には、自分よりも能力の優れた人のことをうらやましく、妬ましく思ったものですが、今はそう思わなくなりました。神さまからより重い、大きな責任を担わされているのだから、大変だなあ、と思うようになりました。そして、私は、私の分を精一杯生きればいい、と思うようになりました。皆さんはどうでしょうか?
 このたとえ話を読んでいきますと、三人の僕のうち、二つのあり方の違いがあることが分かります。一つのあり方というのは、五タラントン、二タラントンを預かった人たちのことです。16、17節をお読みします。
25:16 五タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに五タラントンをもうけた。25:17 同じように、二タラントン預かった者も、ほかに二タラントンをもうけた。
 もう一つのあり方、それは一タラントンを預かった人のことです。18節をお読みします。
25:18 しかし、一タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。
 二つのあり方の違い。一つのあり方というのは、預かったタラントンで商売をして、もうけた、ということです。もう一つのあり方というのは、預かったタラントンを穴の中に埋めた、ということです。皆さんは、どちらのあり方を選ぶでしょうか?私は、一タラントン預かった人のあり方を選ぶかもしれません。なぜなら、商売をして、失敗したらどうでしょう?大変な損失になってしまいます。それだったら、当時のユダヤの人たちがしていたように、土の中に隠しておいた方が盗まれないし、商売して失敗することもありません。それが最も堅実なあり方のように思います。
 主人は旅から帰って来ました。そして、預けていたタラントンの精算をしました。20節以下をお読みします。
25:20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』25:22 次に、二タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、二タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに二タラントンもうけました。』25:23 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
 まず、五タラントンを預かった僕と二タラントンを預かった僕のことが書いてありました。主人は彼らにこう言っています。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(21、23節)。主人は、彼らのことをとてもほめています。「忠実な良い僕」と言っています。それでは、一タラントンを預かった僕はどうだったでしょうか?
25:24 ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、25:25 恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠して/おきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
 この僕は、預かった一タラントンを土の中に隠しておきました。何も使ってはいないから、増えもしませんが、減りもしません。預かった時と同じ額のままです。ただ、この僕のことで一つ気になることがあります。それは、この僕が主人について、このように言っていることです。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり・・・」(24、25節)と言っています。これに対して、主人はこう言っています。
25:26 主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。
 何と、主人は、この僕のことを「怠け者の悪い僕」と言っています。聖書協会共同訳では、「悪い臆病な僕」と訳されています。「怠け者」と「臆病」では、だいぶ意味が違います。私は、「臆病」という訳の方がこの文脈では、ふさわしいように思います。
 一タラントンを預かった僕。彼は、主人に叱責されましたが、何が問題なのでしょうか?それは、この僕は、主人のことを、主人の心、考えを知らなかった、ということです。自分勝手に、主人を恐ろしい人と考えて、もしも主人から預かったタラントンを用いて、失敗したらどうしよう!失敗して主人に責められたらどうしよう!と思ったのです。失敗しないためにはどうしたらいいのか?預かったものを用いなければいい。これが臆病ということです。失敗を恐れて、自分に預けられたタラントンを用いることをしなかったのです。
 五タラントン、二タラントンを預かった僕たち。彼らは、失敗を恐れず、預けてくれた主人のために、それを用いたのです。主人は、ただ預けただけではなく、それを用いてほしいと願っていたのです。彼らはその意を汲んで、預かったものを用いたのです。

(むすび)
 イエスさまは、なぜ、弟子たちにこのたとえ話を語られたのでしょうか?当時の人々が考えていた終末、終わりの日というのは、とても恐ろしい裁きの日ということでした。しかし、イエスさまは、終末、終わりの日というのはそういうものではありません。その日、その時というのは、イエスさまが再びおいでになる日、時だと言われたのです(24章42~44節参照)。そして、その日、その時というのは、神さまの救いを完成する日、時であると言われたのです(24章35節参照)。その日、その時をあなたがたは待っていなさい、待ち望んでいなさい。けれども、それは何もしないで待っているということではない。イエスさまを待っている時、それにふさわしい待ち方があるのです。それは、主人が僕たちにタラントンを預けたように、あなたがた一人一人にも、神さまは素晴らしい賜物を預けている。だから、それを用いて、神さまのご栄光を表すことに努めていきなさい。それがふさわしい待ち方だというのです。
 もうすでに、ここにおられる皆さんは、自分に預けられているタラントン、賜物を用いていると思います。神さまのためにそれを用いて励んでいると思います。イエスさまは、五タラントン、二タラントンを預けた僕にこう言われました。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。この言葉の中で、注意したいこと、それは「少しのものに忠実であったから」と言っていることです。「少しのもの」、口語訳では、「わずかなもの」と訳されていました。私たちが神さまのために、と考えて励んでいること、それは少しのもの、わずかなものと思えるようなことかもしれません。けれども、このたとえの中の主人はそのことを喜んだ、というのです。つまり、神さまは、私たちの少しと思える、わずかと思えるそのことを喜んでおられるのです。自分の働きは、人と比べて、大きいか、小さいか。自分の働きは、成功か、失敗か。神さまはそのことには関心がありません。神さまは、私たちが、たとえ失敗しても、うまくいかなくても、どんなに小さなことでも、神さまのために励んでいることを喜ばれるお方。イエスさまはそのことを弟子たちに伝えたかったのではないでしょうか。そして、今、イエスさまは、私たちにも語っておられる。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。自分ではそう思えないけれども、イエスさまは私たちのことを「忠実な良い僕」と呼んでくださっている。私たちはそのことを信じて、どんな小さなことでも、なかなかうまくいかないことでも、主のために、その思いをもって励んでいきたいと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
 「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」。それは、私たちに対するイエスさまの言葉です。
 自分では、忠実な良い僕とは思えないかもしれません。けれども、主は私たちのすべてをご存じです。私たちの小さなことも、うまくいかなかったことも、主はそのことを喜んでくださっています。
 主が喜んでおられる。そのことが私たちにとって、大きな励ましです、慰めです。そのことを知る時、私たちは立ち上がることができます。
主の愛と赦しに押し出されて、今日も、そして、これからも歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。

関連記事

記事一覧
カテゴリー
アーカイブ
月を選択