十字架抜きの信仰ではなく(ヨハネ8章21〜30節)
主イエスとユダヤ人たちの対話。しかし、ユダヤ人たちは主を信じました。「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(30節)。ところが、その後の箇所を読むと信じたはずの人たちの主に対する振る舞いに驚かされます。主の十字架を知らなければ、真の信仰はないことを知らされます。
「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである」(37節)、「ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった」(40節)、「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」(59節)。これらは主を信じた人たちのことです。
主を信じたが(30節)、その方に石を投げつけようとしている人たちの姿(59節)。回心前のパウロの姿と重なります(使徒9章4節等)。パウロは復活の主に出会い、自分の熱心さが実は主を迫害していたことに気づかされたのでした。十字架を知らない、十字架抜きの信仰、主イエスの愛を知らない信仰は主ご自身を痛めることになるのです。さらにパウロは自分の回心の時の主の言葉をこのように証ししています。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」(使徒26章14節)。十字架抜きの、主イエスの愛を知らない信仰は自分自身をも痛めるのです。
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