見なくても信じる(ルカ24章13〜35節)
「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)とあります。目が遮られて、そこにおられるのが主であるとは分からなかった二人でした。それが二人の目が開け、そこにおられるのが主であると分かった時、主の姿は見えなくなった、というのです。どういうことでしょうか?不思議なことですね。そして、彼らは互いにこう言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。主が語られた時、主が聖書の言葉を説明された時、私たちの心は燃えていた。
聖書から復活について知らされること、それは復活は議論によっては分からないということです。どんなに人間の知恵を尽くしても、語り合っても、それで復活は分かり得るものではないのです。それではどうしたらいいのでしょうか?二人の弟子たちはイエス様が一緒に歩んでおられるのに、それに気づかずにいました。イエス様はご自身が一緒に歩んでおられることを自ら語りかけ、聖書の言葉を教え、食事の席の交わりを通して、彼らにご自身を気づかせてくださいました。私たちもこの二人の弟子たちのような者ではないでしょうか?
主は今、私たちと一緒に歩んでおられます。でも、私たちの心は遮られていて、気づかない、信じられないのです。まずはこのことを信じて見ませんか?「イエス様はあなたと一緒におられる。あなたの人生を一緒に歩んでおられる」ということ。目に見えるものに心奪われ、支配されている時にはなかなかそう思えないかもしれないけれど、主はそのことが信じることができるように私たちの遮られた目を開かせてくださる、心の目を開かせてくださる。見えなくても、見なくても信じるように導いてくださる。そのことを祈りつつ待ち望みましょう。
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