【週報巻頭言】2022年9月11日 パウロの誇り、喜びは(一コリント9章1~18節)
しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。(一コリント9章15~18節)
ここで言われていることですが、キーワードとして、二つの言葉、「わたしの誇り」(15、16節)、「わたしの報酬」(18節)という言葉から考えてみましょう。
「わたしの誇り」、つまり、パウロの誇りについて、ここに語られています。パウロの誇り、それは17節にあります「ゆだねられている務め」ということです。パウロは誰からその務めを委ねられたのでしょうか?神さまから委ねられたのです。神さまから務めを委ねられた。これが誇りなのだ、と言っているのです。
次に、パウロの報酬。それは18節にあります「福音を告げ知らせる」ということです。このことについて、ここに「福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いない」とあります。言われていることはパウロの報酬というのは、福音を告げ知らせる、福音を伝える。このことこそが自分に与えられた報酬なのだ、ということです。
リビングバイブルというとても聖書の言葉を分かりやすく意訳した聖書があります。そのリビングバイブルでは15節は「実際、無報酬で主のために働くという誇りを失うくらいなら、私は飢え死にしたほうがましです」となっています。ここに「主のために働くという誇り」とあります。そして、同じくリビングバイブルで18節は「このような状況で、私の受ける報酬とはどんなものでしょう。だれにも負担をかけず、自分の権利を少しも主張せずに、福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び、これこそ私の報酬なのです」となっています。ここには「福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び」とあります。
「主のために働くという誇り」、そして、「福音を宣べ伝えることから来る特別の喜び」。これこそはパウロが最も言いたかったことであり、キリストの使徒に与えられた最大、最高の権利だったのです。私たちもこの誇り、この喜びを持って、キリストの使徒としての歩みを続けていきたいと思います。
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