「キリストにおいて一つ」エフェソの信徒への手紙2章11~22節 2023/11/19 SUN.
聖書―エフェソの信徒への手紙2章11~22節
(はじめに)
お読みしました聖書の個所は、エフェソの信徒への手紙2章11節からです。11節は、このような言葉から始まります。「だから、心に留めておきなさい」。この「だから」というのは、何を指しているのかというと、お読みした聖書の個所のすぐ前の言葉のことを指しています。エフェソの信徒への手紙2章8~10節を読んでみます。
2:8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。2:9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。2:10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
私たちは、罪によって滅びに向かっていた者でした。しかし、「恵みにより」とあります。これは神さまが私たちに与えてくださった恵みということです。その恵みとは、イエス・キリストです。今日も礼拝の後、聖歌隊の練習が行われます。クリスマスの集会のための練習です。クリスマスというのは、神さまが私たちを罪から救うために、ご自分の大切なみ子イエスさまを恵みとして、私たちに送ってくださった、という出来事です。その恵みを、ここに「信仰によって」とあるのは、恵みを受け取るということです。イエスさまという恵みを受け取ることによって、私たちは救われた、と書いてあるのです。
「だから、心に留めておきなさい」。イエスさまが恵みとして与えられたこと、その恵みをあなたがたは受け取った。このことを心に留めておきなさい、と言われているのです。この「心に留めておきなさい」という言葉は、別の訳では、「記憶しておきなさい」(口語訳)、「思い出してください」(新改訳)、「思い起こしなさい」(岩波訳)というふうにも訳されます。私たちがいつも心に留めておくべきこと、思い出すべきこと、それは、イエスさまが恵みとして与えられたということです。
(聖書から)
さて、11、12節をお読みします。
2:11 だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。2:12 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。
ここに、「異邦人」とか、「割礼を身に受けている人々」ということが書いてあります。エフェソの教会というのは、ユダヤ人、そして、ユダヤ人以外の人たちで構成されている教会でした。「割礼を身に受けている人々」というのは、ユダヤ人のことです。ユダヤ人は、割礼を受けるという習慣がありました。これは、神さまとの契約のしるしでした。一方、「異邦人」というのは、ユダヤ人以外の人たちのことです。ここでは、特に異邦人のキリスト者たちに対して、語られているようです。異邦人は、ユダヤ人からは、「割礼のない者」と呼ばれ、キリストと関わりなく、神さまを知らないで生きていた、というのです。しかし、続く13節では、このような言葉が語られています。
2:13 しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。
「以前は遠く離れていた」。これは、神さまから遠く離れていた、ということです。けれども、「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった」とあります。今はそうではない。イエス・キリストがあなたがたのためにおいでくださったことにより、しかも、イエス・キリストがあなたがたを罪から救うために、十字架にかかり、死んでくださったことによって、あなたがたは、神さまから近い者となった、というのです。
私たちも、この恵みにあずかった一人一人です。大事なことは、この私に神さまがイエスさまを送ってくださった。このことを信じて、イエスさまという恵みを受け取ることです。時々、このような話を聞くことがあります。「自分はイエスさまを信じて、バプテスマを受けたのだけれど、神さまが遠くにいる感じがする。自分の信仰が足りないからなのだろうか?聖書の勉強が足りないからなのだろうか?」そういうことを尋ねられることがあります。神さまが遠くにいる感じがする。私も時々、そういう感じがすることはあります。おそらく、皆さんの中にもそういう方はおられるのではないかと思います。それは、仕方がないことです。私たち人間は、信仰がすぐに揺れ動いてしまう、心が揺れ動いてしまうのです。ある時は、神さまを遠くに感じ、またある時は、神さまを近くに感じることがあります。これは私たちの感じ方であって、本当のことではありません。本当のことは神さまがご存じです。ですから、私たちは、自分の感じ方ではなく、神さまの言葉を基準に、拠り所にしていくのです。お読みした聖書の個所には、このように書いてありました。「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった」。聖書はこのように語っているのです。私たちがどのように感じようが、どのように思おうが、イエスさまが私たちのところにおいでになった。イエスさまは私たちと一緒におられる。そのことは変わらないのです。
14節以下をお読みします。
2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、2:15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、2:16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
ここに「二つのものを一つにし」とあります。これは、おそらく、エフェソの教会を二分する対立があったことを示しているのでしょう。具体的には、ユダヤ人のキリスト者と異邦人のキリスト者の対立というものでした。ユダヤ人と異邦人の対立。教会の中でも、残念ながらそういうものがあったようです。対立というと、争い、戦争・・・。今、世界のいたるところで戦争が起こっています。平和が来ますように、と私たちは祈りますが、私たち自身はどうでしょうか?私たちの身近な所でも、職場や家庭、教会、そこでも、いろいろなことで対立、争いがあるかもしれません。戦争をしている国々、指導者たちのことだけではありません。私たちにも、敵意という隔ての壁はあるのではないでしょうか?
お読みした聖書には、このようなことが語られています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」。キリスト、この方が私たちの平和だというのです。キリストは、このようなことをなさいました。「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・・」。「御自分の肉において」とあります。イエス・キリストはご自分の身をもって、敵意という隔ての壁を取り壊された、というのです。
ある牧師先生が、こんなことをおっしゃいました。それは、「自分には何の問題もない。そう考えている、そう思い込んでいる人こそは一番問題だ。それは、自分の本当の姿が見えていないのだ」。こう言われたのです。私はそれを聞いて、ドキッとしましたが、皆さんはどうでしょうか。私には、敵意というものはありません。隔ての壁などありません。そう断言できる人は果たして、いるでしょうか。実は、私は自分では、あまりそういうものはないだろう、と思っていました。しかし、ある時、私は、ある人から、ものすごい言葉で罵倒されたことがありました。すると、心に怒り、憎しみの心が沸き上がってきました。自分の中にある肉の弱さ、脆さというものに気づかされました。少し前のテレビのドラマで、「倍返し」という言葉がはやりました。「倍返し」というのは、贈り物に対して、倍にして返す、という肯定的な意味があるそうですが、このドラマでは、ひどい仕打ちを受けたらやり返す、という否定的な意味で使われていました。やられたらやり返す。これは聖書の言葉とは正反対です。イエスさまの生き方とは正反対です。私は、自分が罪を犯すことがないように、イエスさまの十字架の愛によって助けてください、守ってください、と祈らされました。
15節には、「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて・・・」とありました。「一人の新しい人」とあります。私たちはイエスさまによって、新しい人にされる。罪に支配されていた古い人から、新しい人にされる。新しい人というのは、イエスさまと共に生きる人、イエスさまの生き方を求め、イエスさまに倣って生きる人ということです。また、この「一人の新しい人」というのは、個人的なことだけではなくて、教会を指しているとも言われます。キリストの体である教会、教会を構成する一人一人が新しくされるということです。
(むすび)
今日の最後の聖書の言葉をお読みします。
2:21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。2:22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
先ほどの15節では「一人の新しい人に造り上げて」とありました。このことについて、今お読みしたところでは、「この建物全体は組み合わされて成長し」とか、「あなたがたも共に建てられ」とありました。造り上げられる、組み合わされる、成長する、共に建てられる。これらの言葉から分かることは、私たちは、今は完成しているわけではない、その途上にある者ということです。お互いが、弱さを抱えた、破れのある一人一人なのです。しかし、そういう私たちを、「キリストにおいて」、「霊の働きによって」とあるように、キリストが、聖霊の働きによって造り上げてくださる、共に建て上げてくださるというのです。これは私にできる、できない、ということではありません。キリストが、聖霊の働きによって、私たちを、教会を「聖なる神殿」、「神の住まい」として、成長させてくださるのです。そのことを信じて、歩んでいきましょう。
祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
お読みしました聖書の言葉から、エフェソの教会で対立していた人たちがキリストの平和にあずかったことを知りました。私たちも罪に支配され、敵意、隔ての壁を作ってしまうことがあります。主の十字架の愛によって、敵意を、隔ての壁を打ち壊してください。そして、主にあって、聖霊によって、私たちが共に建て上げられますように、キリストの愛に向かって成長していくことができますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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