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私にすがりつくのはよしなさい(ヨハネ20章1~18節) 【週報巻頭言】2025年5月11日

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネ20章16節)

最初にマリアが振り向いた時(ヨハネ20章14節)には、そこにおられるのが、イエスさまだとは気づきませんでした。マリアは悲しみに支配され、イエスさまを見失っていたのです。しかし、イエスさまが、自分の名前を呼んでくださった、この時、そこにおられるのがイエスさまであることが分かったのです。彼女は振り向いて、イエスさまが復活されたことを信じたのです。振り向くとは、心の向きを変えるということです。悔い改めとは、このことです。今まで、自分の方を向いていたのが、イエスさまの方へ向きを変えたのです。その時、イエスさまが分かった、イエスさまが生きておられ、この私と共におられる、このことが分かったのです。主はマリアに言われました。

イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」(ヨハネ20章17節)

主は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。マリアは、目の前におられるのは、イエスさま、私の主、私の先生だと分かりましたから、喜んでその手に触れたい、すがりつきたいと思ったことでしょう。それなのに、イエスさまの言葉は、何かマリアを突き放したようにも思えます。この「すがりつく」という言葉ですが、「しがみつく」(岩波訳)とも訳されます。しがみつく、というと、何かにこだわっているとか、固執している、という意味にもなります。マリアは、何にしがみついていたのか、固執していたのか、というと、イエスさまの遺体です。マリアは、死んだイエスさまにしがみついていた、固執していたのです。だから、ここで主が、「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われた意味は、こういうことだと思います。それは、「あなたは、もう私の遺体を捜し求めなくてもいい。なぜなら、私は復活したのだから、私は生きているのだから」。イエスさまは、十字架につけられ、死なれましたが、復活されたのです、主は生きておられるのです。「私が復活したこと、生きていて、あなたと共にいることを信じなさい」(ヨハネ11章25、26節参照)。主は、そう言っておられるのではないでしょうか。

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