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「何のための権威か」マタイによる福音書21章23~27節 2026年2月1日 

何のための権威か マタイによる福音書21章23~27節 2026/ 2/ 1 赤塚バプテスト教会 (朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 お読みした聖書個所は、新共同訳聖書では「権威についての問答」という小見出し、テーマが付けられています。権威についての問答ということですが、この話は、イエスさまに対して、祭司長たちと民の長老たちが尋ねたことから始まっています。私たちも神さまに対して、「神さま、なぜですか?どうしてですか?」といろいろなことを尋ねながら、問いながらの日々ではないでしょうか。そのようなことを考えながら、今日の聖書個所から聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 祭司長たち、民の長老たちがイエスさまに尋ねた場面を読んでみます。
21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
 「このようなこと」とは何かというと、同じマタイによる福音書21章12節から書かれている出来事から分かります。12節を読んでみます。
21:12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
 イエスさまはなぜ、「このようなこと」をしたのでしょうか?「イエスは神殿の境内に入り」とありましたが、これは神殿の境内にある「異邦人の庭」と呼ばれる場所のことが言われています。その場所は神殿の中で礼拝することを許されていない異邦人の礼拝する場所となっていましたが、神殿の中で礼拝するユダヤ人たちのささげ物、献金ための両替などの売り買いでも使われていたため、異邦人の礼拝、祈りの妨げになっていたのです。その様子をご覧になったイエスさまは聖書の言葉を引用され、このように言われました(13節)。
21:13 そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしている。」
 「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」。「わたしの家」、神さまの家、神殿のことです。イエスさまは、ユダヤ人が礼拝する神殿の中だけでなく、異邦人が礼拝する異邦人の庭も含めて言われたと思います。そこは人々が神さまを礼拝する場所、祈る場所であるのに、その場所をあなたがたは奪い取っているではないかと言われたのです。
ところで、先月、この聖書個所からお話しした時に、神殿ということについて書かれている一つの聖書個所に触れました(一コリント3章16節)。
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
 使徒パウロが書いたコリントの信徒への手紙では、神殿ということで、私たち自身が神さまの神殿であると言っています。なぜなら、神さまの霊、聖霊が私たちの内に住んでいるからだ、というのです。この前、ある方が、体調が悪いので、祈ってほしい、と電話をかけてきました。私が最初に祈り、その方が次に祈りました。その方の祈りの中に、「神さまが私たちの内に住んでくださっていることを感謝します」という言葉がありました。私はその祈りを聴きながら、確かに神さまが私たちの内におられる、主が共におられる。そのことを改めて思わされながら祈りを合わせました。
 主は、神殿とは祈りの場、礼拝する場であると語られました。しかし、それを聞いていた祭司長たち、律法学者たちは、その主の言葉を受け入れることはできませんでした。神殿での出来事のやり取りをもう一つお読みします(15、16節)。
21:15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、21:16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
 祭司長たち、律法学者たちがイエスさまのなさった不思議なわざを見ても、子供たちが神さまに賛美をするのを見ても、それを喜ばず、腹を立てていた、というのです。イエスさまは、子供たちの賛美について、聖書の言葉を引用され、祭司長たち、律法学者たちに向かって、そのみ言葉を読んだことがないのか、と言われましたが、この時の彼らは聖書の言葉を聴くことができない、心に受け入れることができない状態だったのではないでしょうか。そういう彼らが、イエスさまに尋ねたこと、それが「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」ということでした。
 この問いに対して、イエスさまは何とお答えになったのでしょうか。
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。21:25 ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」
イエスさまは、彼らの問いには答えていません。彼らの問いに対して、逆に問いかけています。その問いとは、「ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」ということでした。
 イエスさまは、洗礼者ヨハネ、バプテスマのヨハネと言われる人が行ったバプテスマについて彼らに問いかけました。マタイによる福音書では、3章にバプテスマのヨハネの活動の様子が書かれています。
3:1 そのころ、洗礼者(バプテスマの)ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けた。
 洗礼、バプテスマというのは、自分の罪を告白し、神さまと共に新しく生きることを表すことです。今日の聖書には、権威問答のことが書かれていましたが、バプテスマを受けて生きるとは、自分という権威を捨てて、神さまの権威の下に生きることを表すことです。聖書が教える罪、罪人というのは、悪いことをするとか、悪い人ということではありません。自分という権威に生きる、自分を中心に生きる。それが罪であり、罪人ということなのです。
 イエスさまが、「ヨハネの洗礼(バプテスマ)はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と言われたのは、ヨハネが悔い改めよ、神さまに立ち帰りなさい、という呼びかけに応えて、人々がバプテスマを受けたことについて、それは天からのもの、つまり、神さまからの出来事であったのか、それとも、人からのもの、つまり、ヨハネという人が勝手に行ったことだったのか、ということを尋ねたのです。
 この問いを受けた祭司長、民の長老たちはどうしたでしょうか。彼らの様子が書かれています。
21:25彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
 ここにはまず、「彼らは論じ合った」と書かれています。なぜ、すぐに答えることができなかったのでしょうか?彼らの論じ合っている内容から分かること、それは「『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう」、「『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い」とあるように、彼らは何を意識していたかということです。バプテスマのヨハネが一生懸命に、悔い改めのバプテスマを説いていた時、彼らはそのヨハネを批判していたのです。だから、「天からのもの」と言ったとしても、何を今さら、と人々から言われるのは目に見えています。では、「人からのもの」と彼らの本心から答えるなら、群衆の反発の声があることも想像できます。彼らは、イエスさまに対して、「私たちこそは、神の権威によって歩んできた!」と言ってもよいはずなのに、「我々に言うだろう」、「群衆が怖い」とあるように、彼らにとって大事なことは、人の目、人の評判でした。
 さて、このイエスさまの問いに対して、どのように言い逃れしようかと試行錯誤して出た答えがこういうことでした。
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
 彼らは、「分からない」と答えました。イエスさまに問いながら、逆に問いかけられて、何も答えることができませんでした。

(むすび)
 今日の説教題は、「何のための権威か」と付けました。イエスさまがなさったことに対して、何の権威でそんなことをしたのか?と問いかけた人たちでした。彼らは、自分たちが神の権威の下に生きていると思っていました。イエスさまがなさったこと、ヨハネのバプテスマも、神の権威ではなく、自分勝手にやっていることだと思っていました。しかし、イエスさまに問われることによって、実は、彼らこそが神の権威ではなく、人の目を気にしながら、人の評判を気にしながら、生きていることが明らかにされていったのです。
 バプテスマを受けて生きるとはどういうことか、という話をしました。それは、自分という権威を捨てて、神さまの権威の下に生きることです。またそれは、人の目を気にしながら、人の評判を気にしながら生きることをやめて、神さまが私たちに求めておられることは何か、神さまが私たちに問われていることは何か、そのことを見つめて生きることです。最初にお話ししましたように、私たちは神さまに尋ねます。祈りの中でも、神さまに尋ね、問うことが多くあります。しかし、私たちが神さまから問われることもあります。神さまに問いながら、神さまに問われながら、私たちは、自分が一人の罪人であること、神さまに赦されている罪人であることを知らされていくのです。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
私たちの主は、神さまの権威によってすべてのことをなさった方です。そして、私たちも自分を権威とすること、自分を中心に生きることをやめて、神さまの権威によって生きるように呼びかけられています。バプテスマとは、自分ではなく、神さまに従うことの決心であり、告白です。どうか、私たちも神さまの権威の下に生きる者として導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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