主はそれを彼の義と認められた(創世記15章1~21節) 【週報巻頭言】2026年3月15日
神さまは、神さまの言葉を信じられなくなったアブラムに対して、神さま自ら語りかけてくださいました。そして、今は信じられないかもしれないが、私を信じてみないか?とアブラムと向き合ってくださり、語り合ってくださいました。そのような語り合いを通して、アブラムは主を信じてみようと思った、主を信じることに賭けてみようと思ったのです。「アブラムは主を信じた」(創世記15章6節)というのは、アブラムがまったく何の疑いもなく素直に信じた、ということではないと思います。心には、いろいろな思いはありました。けれども、神さまとの対話、やり取りの中で、このお方に自分を賭けてみよう。このお方に自分の人生をささげてみよう。それが、「アブラムは主を信じた」ということではないかと思います。
「主はそれを彼の義と認められた」(同6節)とあります。神さまはアブラムの信仰を義と認められた、とあります。信じられなかったアブラムでした。しかし、神さまに自分を賭けていこう、ささげていこうと決心したのです。ここに、義という言葉が使われています。新約聖書では、義ということについて、神さまとの正しい関係ということで説明されますが、ここでも、アブラムは神さまを信じた。神さまはそれを義と認められた、というのは、アブラムは、神さまとの関係に生きる者となった。神さまにしっかりとつながった、ということです。アブラムは主を信じた。それは、神さまの方から歩み寄ってくださり、神さまとの対話、やり取りの中で、アブラムは、神さまを信じてみよう、神さまにつながって生きていこうと決心したということです。そして、今、神さまは、ご自分の方から私たちにも歩み寄っておられることをおぼえていたいと思います。
この記事へのコメントはありません。