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「本当に、この人は正しい人だった」ルカによる福音書23章44~56節 2026年3月29日 

本当に、この人は正しい人だった ルカによる福音書23章44~56節 2026/ 3/29 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 今日から一週間は受難週です。そして、来週の日曜日は、復活祭、イースターを迎えます。十字架と復活、それが、聖書が伝える救いです。今日は、イエスさまの死の場面が書かれている聖書の言葉から聴いていきたいと思います。

(聖書から)
 44、45節をお読みします。
23:44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。23:45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
 礼拝では、先週からルカによる福音書に書かれているイエスさまの十字架の記事を読んでいます。今朝の教会学校では、お読みした聖書の記事と同じ内容のことが書かれているマルコによる福音書の言葉から学びました。
 昼の十二時ごろ、それは、イエスさまが十字架におかかりになって三時間が経ったころのことでした(マルコ15章25節)。礼拝でお読みしたルカによる福音書、そして、教会学校で学んだマルコによる福音書、どちらにも「全地は暗くなり」(マルコ15章33節)とありました。ルカによる福音書には、それに加えて、「太陽は光を失っていた」ということが書かれていました。
 先週の祈祷会で、私は、この「全地は暗くなり」というのは、その場が暗くなったというだけではなく、イエスさまは暗闇に行かれた、ということをお話ししました。暗闇というのは、私たちの暗闇です。私たちの罪のただ中に主は行かれた、ということです。
 それに続いて、このように書かれています。「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」。神殿の聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕が裂けた、というのです。そのことによって、神さまと私たち人間を隔てていたものが取り除かれた。そのように説明する方がいます。先ほど、罪ということを言いましたが、人間の罪こそは、神さまとの関係を妨げる、隔てるものです。その罪をイエス・キリストは、ご自分が私たちの罪を取り除くために(ヨハネ1章29節参照)十字架におかかりになった。そのように理解することができます。
 さて、ルカによる福音書では、イエスさまの最期の言葉がこのように書かれています。
23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
 マルコによる福音書では、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(マルコ15章34節)と大声で叫ばれた、ということが書かれていました。この言葉は、イエスさまがお使いになっていたと言われるアラム語です。この言葉の意味は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(同)と書かれていて、イエスさまは、旧約聖書・詩編22編2節の言葉をそらんじた、とも言われています。
 一方、ルカによる福音書では、ただいまお読みしたように、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われたのが、イエスさまの最期の言葉であった、と書かれています。この言葉も詩編31編6節にあります。そこには、「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます」とあり、そのすぐ後には、「わたしを贖ってください」という言葉が続いています。
 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。私は、このイエスさまの言葉を読んで、私たちの命というものは、私たちの持ち物、所有している物ではない。そういうことを考えさせられました。私は、このイエスさまの言葉を、神さま、私の命を神さまのもとにお返しします、というふうに聴きました。私たちは神さまのものなのです。この地上において、生かしていただいているのですが、神さまが与えてくださった定められた時があり、その時には、自分自身を神さまにお返しするのです。ですから、私は、このイエスさまの言葉を、私は神さまのもの。そのようなメッセージとして聴きました。
 47節以下には、イエスさまの十字架の死を見た人たちの様子が書かれています。まず、百人隊長です。
23:47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
 百人隊長は、イエスさまの十字架の死を前にして、このように言いました。「本当に、この人は正しい人だった」。マルコによる福音書では、このように書かれていました。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15章39節)。「正しい人」、「神の子」。両方の福音書を併せて読むと、「正しい」というのが、一般的な意味での「正しさ」に留まらないことであることが分かると思います。この言葉を語った後には、「神を賛美した」ということが書かれています。神さまの正しさを賛美したのです。
 神さまの正しさ。神の義。使徒パウロが書いたパウロ書簡と呼ばれるもの、ローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙といったものですが、それらには、神の義、神さまの正しさについて、「『人間を救う神の働き』、その結果である『神と人間の正しい関係』」(新共同訳・用語解説から)とあります。これは先ほども言いましたが、イエスさまが十字架にかかり、私たちを罪という神さまとの関係を妨げるものを取り除いてくださった。それが神の義、神さまの正しさということです。百人隊長は、そのことをこの時、よく分かっていたのかは分かりません。イエスさまのことをどれだけ分かっていたのかは分かりませんが、イエスさまのことを、「正しい人」、「神の子」と言っています。ローマの兵隊の長、異邦人であるこの人の口から、このような言葉が出たことは不思議なことです。
23:48 見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。23:49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。
 「見物に集まっていた群衆」とあります。おそらく、イエスさまとは深い関わりを持ったことのない人たちのことでしょう。ただ見物に来ていただけの人たちです。そういう人たちですが、このように書かれています。「これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」。
 胸を打つ、とは、どういうことでしょうか?ルカによる福音書18章9~14節、ここには、イエスさまのたとえ話が書かれています。新共同訳聖書では、「『ファリサイ派の人と徴税人』のたとえ」という小見出しが付けられています。あるファリサイ派の人の祈りとある徴税人の祈りの言葉が書かれていますが、徴税人の祈りはこのようなものでした。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(ルカ18章13節)。
 この徴税人の祈り、それは、悔い改めの祈りでした。神さまの前に、自分の罪を示されて、悔い改めて祈ったのです。この祈りの時の徴税人の様子はこのようなものでした。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った」。「胸を打ちながら」とあります。胸を打つ、というのは、悔いる様子を表しています。見物に来た人たちがイエスさまの十字架の死を見て、胸を打った、悔いた、というのです。十字架によって、自分たちの罪が示された、分かった、ということでしょうか。
 イエスさまの十字架の死を間近で見た人たちのことについて触れてみましたが、もう一人の人の話をして終わりたいと思います。それは、アリマタヤのヨセフと言われる人です。
23:50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、23:51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
 アリマタヤのヨセフがイエスさまの十字架の死を見ていたかは分かりません。他の福音書などを見てみますと、主の死から少し時間が経った後の話のようです。この人は、ユダヤの議員だったようですが、「善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった」とあります。イエスさまを十字架にかけることには、同意していなかった、ということがここに書かれているようです。「善良な正しい人」、「神の国を待ち望んでいた」ともあります。他の福音書を見てみますと、イエスさまの弟子であった、ということが書かれています(マタイ27章57節、ヨハネ19章38節)。
 しかしまた、アリマタヤのヨセフについて、ヨハネによる福音書には、このようなことも書いてあります。「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」(ヨハネ19章38節)。イエスさまの弟子であることを、ユダヤ人たちを恐れて、隠していた。人を恐れて、主の弟子であることを隠してしまう・・・。私たちが福音を伝える時に大きな妨げとなること、それは何かというと、恐れ、このことではないかと思います。人からの批判、反対、そういったことを恐れて、なかなか福音を伝えられないでいるのではないでしょうか。
 ある牧師先生は、私たちはクリスチャンなのだから、もっと大胆にならなければならない!強くならなければならない!と言われます。それは正論かもしれません。しかし、人間の心、生き方はそう簡単に変わるものではありません。アリマタヤのヨセフについて言えば、この人は、イエスさまの十字架の死に直面して、恐れの心が少しずつ取り除かれていったのではないでしょうか。イエスさまが、この私のために命をささげてくださった。そのことを心から信じていった時、神さまの愛が分かり、恐れの心が取り除かれていって、イエスさまがこの私のためになさった愛に応えていきたい。今、自分ができることは何だろうか。自分の所有している墓にイエスさまの遺体を納めたい。イエスさまの十字架の死によって示された神さまの愛がこの人の生き方を変えていったのではないでしょうか。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(一ヨハネ4章18節)と聖書は語っています。

(むすび)
私たちもヨセフと同じく、肉の弱さ、人間的な弱さを抱えながら、しかし、神の国を待ち望んでいる一人一人であると思います。主の十字架の死に直面して、その生き方が変えられていった人たち。それが、この聖書個所が私たちに伝えていることだと思います。百人隊長、群衆、アリマタヤのヨセフ。彼らは主の十字架の死を知った時、そこで主の愛を知り、主に出会ったのではないでしょうか。そして、私たちもイエスさまの十字架、愛を見上げていく時、私たちの心に、生き方に何らかの変化があるなら、幸いなことだと思います。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
受難週の時を過ごしています。イエスさまの十字架の死を前にした人たちの姿を聖書から知りました。イエスさまから、神さまから遠い存在のように思えた人たちが変えられていきました。恐れの心に支配されて、イエスさまの弟子であることを表すことのできなかった人が変えられていきました。
私たちも、イエスさまの十字架の死が、この私のためであったことを心から信じる者でありますように。主の愛を、主との出会いを心から喜び生きる者でありますように導いてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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