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「離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」ペトロの手紙一1章1~2節 2026年4月19日 

離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ ペトロの手紙Ⅰ 1章1~2節 赤塚バプテスト教会(朝・夕)礼拝説教 石堂雅彦牧師

(はじめに)
 ペトロの手紙一の言葉を読みました。今月から、毎月第三の日曜日には、ペトロの手紙一からお話ししたいと思います。書名にあるように、ペトロという人が書いた手紙、それがペトロの手紙です。聖書学者の人たちは、この手紙は、ペトロが直接書いたものではなく、ペトロからキリスト信仰の教えを受けた人が書いたものだと言います。確かに、このペトロの手紙一の最後の方には、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」(5章12節)と書いてありますように、シルワノという人がこの手紙を書いたことが分かります。シルワノという名前の人は、別の聖書個所にも出てきます(一テサロニケ1章1節、二テサロニケ2章1節)。また、新約聖書の使徒言行録には、シラスという人の名前が出てきますが(使徒15章22節など)、この人はシルワノと同一人物とも言われています。
 ペトロについては、イエスさまの弟子、十二弟子の一人として知られています。ペトロはもともと漁師でした。ある時、漁をしていたところを、イエスさまから招かれて、イエスさまの弟子となりました。その場面を読んでみます(マタイ4章18~20節)。
4:18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。4:19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。4:20 二人はすぐに網を捨てて従った。
 「ペトロと呼ばれるシモン」とあります。ペトロの本名はシモンでした。それが、ケファというあだ名を付けられました。ケファというのは、岩とか石のことで、ギリシア語では、ペトロというのです。イエスさまは、ペトロとその兄弟アンデレをご自分の弟子としてお招きになりました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。今までは、魚をとる漁師でしたが、これからは、人間をとる漁師、人々を神さまに導く者として歩んでいきましょう、と言われたのです。この招きの言葉に応えて、ペトロはイエスさまに従っていったのです。
 先ほど、ペトロは、この手紙をシルワノに書かせたことをお話ししましたが、もしかすると、ペトロにとっては手紙を書くということは得意ではなかったかもしれません。それでシルワノに、言葉で伝えたことを手紙にしてもらったのかもしれません。

(聖書から)
 さて、ペトロの手紙一を読んでいきましょう。まず1節です。
1:1 イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。
 ペトロの手紙、その宛先というのは、「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」ということでした。この言葉からは、三つのことが分かります。一つは、離散している人たち、ディアスポラと言われる人たちです。ユダヤは紀元前6世紀に国を失いました。そのことによって、他の国へと離散していった人たちのことが言われているのです。しかし、彼らは住んでいる場所は離れても、変わらないものがありました。それは、信仰です。神さまを信じる信仰です。信仰が彼らを支えてきたのです。
 もう一つのこと、それは、仮住まいをしている人たちということです。離散していた人たちは、それぞれの地に仮住まいをしていました。仮住まいということですから、本来、住んでいたところに戻ることを願っていました。しかし、仮住まいというのは、それだけの意味ではありません。神さまを信じる者にとっては、この世、この地上は、仮住まいなのです。どの地域でも、国でもない、本当に住むべきところ、帰るべきところがあるのです。そのことが、聖書の中に書かれています。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3章20節)。口語訳聖書では、「わたしたちの国籍は天にある」となっていました。「本国」、「国籍」とありますが、これは「市民権」という意味です。私たちは、天の国(神の国)の市民ということが言われているのです。この世は、この地上は仮住まいであり、私たちは天の国の市民とされている。これは神さまを信じる者はみんなそうなのです。私たちは天の国、神の国の市民、そのことを思いながら、今はこの世を、この地上を精一杯、生きていくのです。
 そして、三つめは、選ばれた人たちということです。誰に選ばれたのでしょうか。私たちは、神さまに選ばれたのです。そして、選んでくださった神さまのみ心を表すために生きるのです。神さまのみ心と言いましたが、そのことについてお話ししたいと思います。聖書はとても分厚く、これを読み通すのは大変ですが、聖書の最も中心と言える教えというのは、一つです。その言葉を読んでみます(マタイ22章37~39節)。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
 お読みしたのは、神さまの律法、教えの中で、どれが最も大切な教えですか?という質問に答えて、イエスさまが語られた言葉です。神さまを愛すること、隣人を愛すること、これが聖書の中心の教えであり、神さまのみ心の最も大事なことです。選ばれた人とありましたが、その人自身が何か選ばれるだけの優れたものがあるということではありません。イエスさまがペトロを弟子として選んだのも同じです。ペトロという人に何か優れたものがあったわけではありません。しかし、神さまが選ばれた目的があります。それは、神さまのみ心、教えに従っていくため、神さまを愛し、隣人を愛するためということです。今日の聖書個所の2節にはこのようなことが書かれていました。
1:2 あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。
 ここには、選ばれた目的が書かれています。「あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、“霊”によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」。「イエス・キリストに従い」とあります。イエスさまに従うために選ばれたのです。
 「“霊”によって聖なる者とされ」ということが書かれていました。口語訳聖書では、「御霊のきよめにあずかっている人たち」となっていました。聖霊によって聖なる者とされた私たち、きよめられた私たちということです。聖なる人というと、カトリック教会では、とても信仰深い生き方をした人を福者(ふくしゃ)とか、聖人に認定します。皆さんはお名前を聞いたことがあると思いますが、マザーテレサという人もカトリックの聖人の一人です。しかし、ここで言われているのは、そういうことではありません。ある特別の人たちだけではなく、キリストを信じる人すべてに対して言われていることです。
 聖なる者、きよめられた者というと、よほど努力して、神さまに忠実に生きるように努力しないと立派に生きていかないとそんな人にはなれないと思うかもしれません。しかし、ここには、「“霊”によって」とあります。聖霊によって、ということです。私たちは、自分でどんなに決心しても、努力しても、聖なる者にはなれないのです。けれども、神さまは私たちを聖霊によって、聖なる者としてくださったということが書かれています。
 聖なる者とは、別の言葉で言うならば、神さまのものということです。ある人は、自分は欠点だらけだし、人を愛することもできない。聖書には、聖なる者とあるけれども、私はそんな人にはなれません、無理です!と言われました。確かに、自分の努力、頑張りでは誰も聖なる者になることはできません。しかし、聖霊が私たちを聖なる者として生きるように導いてくださるということがここに書いてあるのです。
 別の聖書の個所には、こういう言葉があります(二コリント3章18節)。
3:18 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
 これは、先ほどの「“霊”によって聖なる者とされ」、この言葉と同じことが言われています。この聖書の言葉には、「聖なる者」とは書かれていませんが、「主と同じ姿に造りかえられていきます」とあります。イエスさまと同じ姿、イエスさまに似た者にされていくというのです。聖なる者とは、イエスさまに似た者ということです。そしてそれは、「主の霊の働きによること」とあるように、私たちは、聖霊によって、聖なる者、イエスさまに似た者とされるのです。

(むすび)
2節の後半の言葉をもう一度、お読みします。「また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです」。「その血を注ぎかけていただくために」とありました。ここには、血ということが出ていました。それはどういうことを言っているのかというと、イエス・キリストが私たちを罪から救うために流された血のことです。毎月、私たちの教会では主の晩餐式を行っています。主の晩餐式の時には、パンとぶどうジュースをいただきますが、それは、イエスさまが十字架にかかり、裂かれた肉と流された血を象徴するものです。イエスさまが、私たちのために命をささげてくださったことをおぼえ、その愛に応えて、私たちも神さまの愛に生きることを決心していく、それが主の晩餐式です。
ところで、聖書で言われている罪ということは何かというと、一言で言うなら、自己中心ということです。それは神さまを愛さない、人を愛さないということです。しかし、神さまのみ子イエス・キリストがおいでになったのは、私たちが罪から離れ、愛する者として生きるためでした。そのために、イエスさまは私たちのすべての罪を担って死んでくださいました。私たちは先日、イエスさまの復活をお祝いするイースター礼拝を持ちました。イエスさまが復活されたのは、イエスさまが罪と死に勝利されたことを表しています。イエスさまを心に受け入れ、生きていく時、私たちは聖霊によって、日々、新しくされていきます。愛せない、愛さない者から、愛する者へと変えられていきます。それは、イエスさまを信じたら、自動的に変えられるわけではありません。自分が聖なる者とされるように、主と同じ姿に造り変えられていくように、私たちは、神さまに祈り求めていくのです。イエスさまの言葉に、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)とありますが、これは、私たちが神さまに従う者として生きることを教えているのです。神さまが私たちを用いて、私たちを通して、神さまの愛と義が表されるように祈っていきましょう。今日の最後の言葉は、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように」ということでした。神さまの恵み、神さまの平和が私たちに豊かに与えられますように。お祈りいたします。

祈り
恵み深い私たちの主なる神さま
ペトロの手紙一の最初の言葉を読みました。それは、離散して仮住まいをしている選ばれた人たちに書かれた手紙です。この手紙の宛先の人たち、また今、この世を生きる私たちも神さまに選ばれた一人一人です。「神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」とありました。神さまは、私たちを知っておられます。その私たちを神さまの救いのご計画のために、選び、用いてくださいます。神さまは、ご自分の大切なみ子イエス・キリストによって、私たちを罪から解放してくださいました。私たちは、神さまが私たちを自己中心の生き方から、神さまを愛し、隣人を愛する生き方へと導いてくださることを信じて歩ませてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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