問われ続けながらも(ヨハネ12章1〜8節)
イスカリオテのユダが実際、どういう人であったかは知りません。先ほどお話しましたように、積極的に貧しい人への施し、慈善の働きに励んでいた人であったかもしれません。しかし、聖書はこう記します。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない」(6節)。「他者のための教会」。このような言葉を聞きます。それは大事なことです。しかし、どうでしょうか。他者のために、ということは本当に難しいことです。私たちの矛盾した姿、偽善性、そういったことも問われながらの他者のために、ということにならざるを得ないのではないでしょうか。私は平和のためにやっている、人のためにやっている、と断言し、豪語していく時、聖書がユダについて記しているように、神様は私たちに本当に他者のためなのか、そのことを問われるのではないでしょうか。ですから、私たちはどんなに施しをしても、善行を行なっても、自分を誇ることはできない。ただただ神様の栄光が現れるために、そのことを求めていく者でありたいと思うのです。8節にはイエス様のこのような言葉があります。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」。貧しい人々と一緒にいる、共にいる。私たちが上から目線で、貧しい人たち、困っている人たちのために、というのではないのです。一緒にいる、共にいることが大事なのではないでしょうか。
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